【富を築く力】神様に託されたお金の本質

    お金は神様からの賜物であり、自分の力で得たものだと誇るべきではありません。神様が与える能力や環境、才能に感謝し、「富を築く力」を授かった意味をよく考えるべきです。それがあなたの幸せにも繋がりますし、神様の御心に沿った生き方にもなるからです。富や豊かさについて、本質を語ります。ぜひご覧ください。

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    富の管理者としての心得

    富 お金 聖書 神様

    私たちは、神様からお金を委ねられております。自分で稼いだつもりでも、権利として与えられたお金でも、すべては神様の采配です。間違っても「これは私だから手に入れたんだ!」などと、プライド高く思ってはいけません。自分の力というのは、すべて神様からいただいた賜物です。能力や才能、環境、容姿だってそう。すべてです。勘違いしないでください、ということです。

    あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。

    旧約聖書 申命記 8:17-18

    大金を自分の力で手に入れられるようになると、人は勘違いをします。それを戒める言葉でもあるのが、上記の通りです。では、神様はなぜ私たちに「富を築く力」を与えられたのでしょうか。これについて考えるのは、すごく重要です。

    王と僕の

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    聖書を読むと、神様(イエス様)がお金について重要なお話をされております。今からお伝えしますので、よくよくじっくりと読んでみてください。これがわかれば、お金の本質も見えてくるはずです。

    ※1ムナ=100万円

    イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。

    新約聖書 ルカによる福音書 19:12-26

    理解するまで、何度でも上記の文章を読んでください。ここに、富の管理者としての心得がすべてつまっています。ここがわからずして、富を築く力など到底手に入れられません。

    自分のため”だけ”な愚かな人

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    それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

    新約聖書 ルカによる福音書 12:16-21

    上記の御言葉は、現代の私たちにも深く刺さりますね。いかに貯金をしようか、いかにお金を増やして自分のためにしようかと、そればかりを考えがちです。どんなお金も神様の采配です。正しく扱うことができない人の富は、一夜にして取り上げることだってできるのです。いえ、むしろお金よりも尊い「命」を取り上げることすらできます。

    神様に愛されるお金持ちとは

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    さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。

    新約聖書 マタイによる福音書 19:16-23

    お金があればあるほど、人は手放すことが容易にはできません。いえ、もちろん貧しくとも簡単な話ではありませんよね。私が思うに、ここには「強欲さ」が隠れていると思います。すべてのお金持ちがそうではありませんが、さらに、さらに・・・と求めているのです。なぜ求めているのか? 私利私欲のためでしょうか。神様の意図は、果たしてそうなのでしょうか?よくよく考えていただきたい御言葉です。

    神様が愛されるお金持ちとは、「神様が与えた富を有効活用できる人」に限ります。自分の私利私欲ではなく、人のために何かができる人ですね。自分に与えられた賜物を通して、人に何ができるのかを考えれば、きっと出てくるハズです。

    神と富

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    「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

    新約聖書 マタイによる福音書 6:24

    私たちの主人は、神様です。お金ではありません。しかし、多くの人はお金を執拗に求めます。それが悪いとは言いません。お金が悪だという解釈も違います。しかし、神様を忘れてお金に固執しているのであれば、それはあなた自身が間違っています。

    そもそもが、おかしな話です。神様とお金は同等ではありませんよね。神様はお金をつくられ、人にそれを采配される人です。与えることも、奪うこともできます。お金はあなたの力ではありません。

    お金を求めるのではなく

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    お金ではなく、神様を求めること。これがこの記事で一番伝えたいことです。お金そのものを追い求めていたところで、明日のことさえわからない私たちには、なんてあやふやなものでしょうか。そして、お金を自分の力で得たものだと思っているプライドは、なんて愚かでしょうか。「では、一体私たちはどうすればいいんですか?」そこで、神様からの深い御言葉をお伝えさせていただきます。

    「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」

    新約聖書 マタイによる福音書 6:19-21

    富とは、お金だけの意味ではありません。他には、健康、良い環境、パートナー、頭の良さ、能力、才能、見た目(容姿)など。しかし、これら以上の富があります。心です。意味、わかりますか? もう一度、上記の御言葉をじっくりと読んでみてくださいね。

    富は神様から来るもの

    富 お金 聖書 神様

    わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい

    旧約聖書 申命記 8:11-14

    そして、冒頭にも述べた御言葉を見ていただきたいです。いえ、こちらにもう一度掲載しますね。

    あなたは、「自分の力と手の働きで、この富を築いた」などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。

    旧約聖書 申命記 8:17-18

    ここで一貫して言われていることを、落とし込むことはできていますか? 一言でいうならば、「自分の心に神様を据えること」です。お金のことや、自分が自分がという自我剥き出しではなく、神様を第一に仕えるのです。そして、これは決して奴隷的な意味ではありません。神様を信頼するといった、シンプルな話。

    種を蒔く人になる

    富 お金 聖書 神様

    神様を第一にする生き方とは、どうしたら良いのでしょうか? 私は大きく2つあると思っています。

    • 神様のいわれる決まりごとを守ること(十戒)
    • 種まきをする人になること

    以上です。十戒については、また別で語らせていただきます。種まきをする人について、神様はこう言われています。

    「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

    新約聖書 ルカによる福音書 8:11-15

    まるで、神様の御言葉は心の種ですね。私自身、聖書と出会ってから一年が経ちましたが、ずいぶんと心が変えられました。心の豊かさほど、平和で心地よいものはありません。それだけでなく、経済的な意味でも、以前より増して富ませてくださっています。富はこれだけではありません。住まいも、仕事も、出会う人も、いろいろな意味での豊かさを受け取っています。すべて、神様のおかげです。

    【さいごに】聖書の御言葉を素直に受け取っていく

    富 お金 聖書 神様

    私は、もっと多くの人に聖書を読んでいただきたいと思っています。なぜなら、私が救われたからです。心の豊かさは、お金や人間関係だけでは本当の意味では手に入らないことを知っています。では、何で満たされるのでしょうか。お金でもなければ、物品?仕事?やりがい?家族?子供?・・・いずれも、一時的なものです。

    神様がいなければ、私たちの心はいつまでも空っぽです。これは宗教のお話ではありません。人間のつくりだした組織や概念を話しているのではありません。私たちは、アダムとエバという人間の始祖(創世記)からずっと続いています。神様から造られ、命を与えられ続けてきました。そんな私たちは、神様なしではどこまでも空洞です。心から神様を受け入れ、信頼していくことが重要だと、私自身の経験からも知見からも、何よりも心からそう思っております。

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    特徴:大正時代ならではの文学感のある文章
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