【7ヶ月ぶりの教会】私はクリスチャンなのだと実感

    私は2023年11月に教会でバプテスマを受け、その後教会に行かなくなりました。詳しい理由はこちらに記載しております。さて、教会に行かなくなると、自分一人の信仰生活になるわけで、霊的に弱っていくことを実感させられました。人は一人でいるのは良くないです。そんな本日(2024年6月8日)、教会に行ってみました。実に、7ヶ月ぶり。改めて理解します。私には神様が必要だと。そして、神様の家・教会は私の居場所なのだと。教会の重要性を実感しました。

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    欲望まみれになり、限界を感じた私

    教会 戻った

    さて、約7ヶ月間、教会から離れていた私は、心と生活が荒れていました。その間、私は自分をすごい人に見せようと、無駄に着飾ったり、常に何か知識を入れようと、何かを得ようと必死な生活を送っていました。欲望が絶えないのです。今よりも高く高くと、強欲な気持ちが募っていきました。

    もう疲れた、もう生きたくないと思った

    疲れた 生きたくない

    神様に頼ることをせず、自分の力で頑張っていた7ヶ月間は苦痛でした。欲望は治まることがなく、私は常に動いていました。本当の意味での休息ができずに、ずっと駆け抜けていました。それに比例するように、心はどうしようもなく疲れていき、生きることは悲しみだとさえ思ってきました。希望の見えない人生だと感じていました。

    「試してみよ」と神様がおっしゃるので

    教会 戻った

    真に満たせるのは、自分の心に神様を受け入れることのみ。私もクリスチャンです。神様の恵みを知っている者です。そう、知っているが故、教会に行かなくなった自分をずっと悔いていました。そして、涙が出るほどに限界を感じた時、泣きながら神様に祈りました。この時に神様からいただいた御言葉があり、それによって教会に行く決意が生まれました。

    十分の一の献げ物をすべて倉に運び わたしの家に食物があるようにせよ。 これによって、わたしを試してみよと 万軍の主は言われる。 必ず、わたしはあなたたちのために 天の窓を開き 祝福を限りなく注ぐであろう。 また、わたしはあなたたちのために 食い荒らすいなごを滅ぼして あなたたちの土地の作物が荒らされず 畑のぶどうが不作とならぬようにすると 万軍の主は言われる。

    旧約聖書 マラキ書 3:10-11

    だから、什一献金をしたいと思った

    教会 戻った

    私が教会に戻ろうと思った動機は、「献金したい」からでした。もっと正確にいいますと、マラキ書を読んだからです。正直、お布施的な思いが膨らみました。大前提、献金がそういう類のものではないことは理解しています。それでも、「私の持っているものを先に差し出す(与える)ことをせねば」と不思議と強く思わされたのです。こればかりは、神様が「試してみよ」とおっしゃるものですから、「では、させていただきます。助けてください」というすがった気持ちがありました。一見すると不純にも見えますが、とにかく必死でした。

    7ヶ月ぶりの教会は温かくて涙が出た

    教会 戻った

    献金をすることを一番の目的に、教会へと行ってきました。私は教会に行かなくなったに恥を抱いていたため、人々と顔を合わせたくなく、礼拝時間ギリギリに門を開きました。とはいえ、まぁ気付かれるわけです。一瞬、「うげっ」と思った私ですが、牧師さんやお馴染みの顔ぶれの方々が花咲くような笑顔で迎えてくださいました。すごい方たちだなと圧巻させられました。

    かつては語り合ったこともある方々に対して、今や避けようとしている自分が情けなく感じました。自分がいかに愛のない人間になっていることにも気付かされました。こんな私でさえも、神様の家はオープンです。優しい教会、美しい讃美歌、安堵の思い、座っているだけで涙が出そうになりました。ハンカチで汗を拭くついでのように、さりげなく涙を拭いましたよ。

    教会は主の家なのだと気付かされる

    教会 戻った

    受付でいただいた週報をふと見ると、今の私にはハッとするほど輝いた御言葉が目に入りました。

    主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。

    旧約聖書 詩編 122:1

    これまでの私は、「教会とは組織だ」とばかり思っていました。みんなで集まり、みんなで学んでいく場所であると。そこに良い・悪いはなく、社会人サークルのような、部活動のような、地域の共同体のような、つまりは人々の営みの一部になるようなコミュニティだと思っていました。しかし、今の私にはそう見えません。ここは、主の家だと。神様の家だと瞬間的に感じました。

    教会で、本当の安息を知る

    安息日

    今日という日を狙って教会に行ったのではありません。私はこの前夜に、ふと行こうと決心したのです。しかし、気軽な気持ちはありません。怯えていた私は、神様に何度も祈りました。「私を教会に行かせてください。教会に行く勇気をください」と。神様が道を備えてくださったので、行くことができました。

    そうでなければ、私は結局怖気付いていたでしょう。その結果が7ヶ月間でしたから。そんな偶然のような今日ですが、今日という日に教会へと戻れた意味がわかりました。この日の説教で、ガツンと感動を覚えました。すべては安息を知るためだったのだと。

    「燃え尽きるその前に〜リセットの勧め〜」

    この日、なんと教団総理の稲田豊さんが説教に来られていました。「燃え尽きるその前に〜リセットの勧め〜」という説教をされました。一言でいいますと、安息日の深みを教えていただきました。少し長くなりますが、驚くべき内容でしたので、箇条書きでシェアさせていただきます。

    稲田豊さんの説教内容

    稲田豊
    説教の内容
    • 神様は無から有を生み出す唯一の方であり、科学では話がつかない。聖書にすべて書いてあること。
    • 言葉一つで何でも造るのが神様。天地創造すらも。エネルギーも物質も、何もかも。
    • 時間すらも神様が造られた。過去・現在・未来の前から存在するのも神様であること。
    • かつてローマが週10日間、時計を10針に変えようとしたが(つまり時間をコントロール)、人はそれができなかった。つまり、人は神様が定めた時間に合わせて造られていること。
    • 安息日の厳守である、6日間働き、7日目に休むことは、人のためであるということ。
    • 7日、ここには創造主の神秘が隠されており、時間も人の体も、5とか10でもなく、7のリズムが組み込まれているということ。
    • 安息日を守ることは、神様から与えられる休息をいただくということであり、人は真に休むことができる。
    • 時間は神様のみの管轄であり、人は明日が来ることさえわからない。それでも先を考えてしまう。安息日は、「思い煩うな」を体験していく練習でもあり、人生を閉じる練習なのかもしれない。

    人間は神様から休息を与えられない限り、休めない

    教会 戻った

    これまでの私は、安息日とは律法であり、守るべきものと思っていました。そして、それだけです。それ以上の意味は知りませんでした。というよりも、知ろうともしませんでした。ですから、「とりあえず言われたから守っておこう」くらいの気持ちでした。これが愚かだったことが思い知らされます。

    稲田豊さんは説教中に、実に興味深い発言をされていました。「人間は神様から休息を与えられない限り、休めない」と。神様は与える神様です。ただし、人がそれを受け取ろうとしませんよね。多くの人は、神様を受け入れません。神様の存在すら疑う人もいます。逆にいえば、神様を知れば、安息日のことも知ります。だからこそ、休息に預かれるわけです。時間すらも造られた神様が、時間によって安息日を定めました。すべては人のためのものです。

    「神様、私を助けてください」この祈りが成就

    神様 助けてください

    記事の始めでもお伝えしましたが、私はもう疲れた、もう生きたくないと思っていました。そして、神様に祈っていました。その結果、教会へともう一度足を運ぶことができました。献金をするためというのは、私という人の思いでした。大前提、神様は「試してみよ」とおっしゃっていたので、私はそうしたのです。

    しかし、これだけではありませんでした。安息の意味を知ることができ、私自身、不思議と内側から癒されました。「助けてください」という、言葉にならない苦痛の思いを、神様は癒してくださったのです。安息を与えてくださいました。時間すら超える、心を満たす何かです。神様の計画は、人の思い以上に深く、いつだって完璧なのだと思い知らされました。

    さいごに

    門をたたきなさい

    人は誰しも、心が弱っていきます。生きていればそうなります。神様はすべてをご存知で、一人ひとりを愛しておられ、救いたいと思われています。そして、救いの門はいつでも私たちのすぐ側に用意されてあります。しかし、その門を叩くのは私自身です。すでに神様は歩み寄ってくださっています。その神様を信じますか?というのが、大事なポイント。口先ではなく、心から。これが信仰です。安息に預かれるのも、信仰あってこそです。

    教会の存在意義

    信仰 一人

    信仰は一人でもできると、この7ヶ月間のうちに思っていたのは私です。かつては教会でバプテスマを受けるほどには、教会を大事にしていたはずでした。そんな私が教会を離れ、一人で聖書研究をしていましたが、これではダメでした。いつの間にか、神様から離れていました。だからこその教会だと、私は思っております。この神様の家で、私は信仰というものを学ばせていただき、今もそれを味わっています。

    教会と歩む信仰の姿勢

    信仰 一人

    教会から離れたこと、また立ち戻れたことも含め、教会に行くことでしか学べない深みがあるのです。人との出会いや、ふと出会った言葉による慰めも然り。人あってこその自分という個だと、気付かされます。愛はそこで培われます。一人では成り得ません。私の信仰生活は、ここからまた始まっていくのだと感じました。教会に戻れたこと、とてつもない祝福です。私は幸せ者です。アーメン。

    \教会を離れていた間の私/

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    \ 聖書には主に「4つ」の訳があります! /

    特徴:一番最新の訳で、読みやすい
    特徴:原語(ギリシア語・ヘブライ語)に忠実
    特徴:20世紀に最も親しまれたポピュラーな訳
    特徴:大正時代ならではの文学感のある文章
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