「何で聖書(が好き)なんですか?」と聞かれることが時々あります。私はこう答えています。「悩みやすくて病みやすい私が、心の底から救ってくれたのは聖書だけだった」と。聖書に出会う前までは、悩みや辛い時があっても、どう対処すればいいのかわかりませんでした。友達に相談するのも年々できなくなり、親も難しく、占いやヒーリングに逃げていたこともありました。また、自己啓発本を読んでマインドを整えようともしました。いずれも、一時的なものでした。このラットレース、いつになったら終わるのか。それは聖書によって、終わりました。聖書に出会えたことの奇跡について、お話します。
聖書との出会い
普通に生活していては、聖書とはそう出会わないのが現代かと思います。それこそ、聖書という存在は知っていても、手にとって読む機会はあるでしょうか。存在の認識と、自分のパーソナルスペースに入れることは違いますからね。そういう意味では、私はラッキーでした。聖書と出会い、読むことができたのは、本当に幸せ者です。
私はドリーン・バーチュー氏に種を蒔かれた
聖書に興味がでたきっかけは、元スピリチュアル・リーダーで世界的な作家である、ドリーン・バーチュー氏です。彼女が急に「オラクルカードやエンジェルなんとかは辞める!キリスト教に転身する!」と大胆に声を上げたのがきっかけでした。日常にあるような、たまたま出会ったようなきっかけでしたが、今思えばこれは種でした。
聖書を知り、脱スピし、信仰の道へ
種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。
新約聖書 マルコによる福音書 4:14-19
聖書の神様を知れた幸せ
スピリチュアル歴20年以上の私は葛藤していた
私は小学生頃から、目には見えない世界に惹かれていました。占いやスピリチュアルなことが好きで、そこから導き出した情報こそが真理だと思っていました。なんなら、私は他の惑星からも転生してきて、今生では地球人として生まれ、慣れていないために現状が苦しく生きづらいのだと一人納得をしていました。そんな中で、ドリーン・バーチュー氏のにわかファンでもありました。とにかくたくさん齧っていました。
人生の道がわからなくなった時に出会う
様々なスピリチュアル的なことが大好きだったのが、私の青春時代〜若い頃の大半でした。人生を良くしていくためでした。しかし、現実は満たされませんでした。それどころか「人生の道がわからないなぁ」状態で、年々生きづらさが増していったように思えます。いよいよ20代後半からは、心が病み、不安定で、将来への希望が見えませんでした。そんな時、私はドリーン・バーチュー氏の発信を機に、聖書と出会えたのでした。
聖書伝道は誰かを救う
なぜなら、私が救われたから
先ほど述べたように、私はドリーン・バーチュー氏のクリスチャン転身の表明を知ってから、聖書に強い興味を持ち、気がつけば信仰の道を歩むことになっていました。ここで私が言えることは、大胆に聖書伝道することは、誰か(私)を救うことになるということ。ですから、ドリーン・バーチュー氏が勇気を出して全世界に発信してくださったことで、私の日常に聖書が現れたのです。
まさか、聖書を熱心に愛するとは思わなかった
正直、聖書にここまでハマるとは思いませんでした。いえ、もはやハマるとかの次元ではなく、今では私の人生に欠かせないと言った方がいいです。毎朝、聖書を読まない日は大事な何かが欠けたかのような喪失感すらあるくらいです。聖書ほど熱心に心注いだものは今までありません。私にとって聖書とは、飽きることなく、それどころか、命の水でもあります。それほど、私は聖書を愛しています。
小さな種でも、実は結ぶ
良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
新約聖書 マルコによる福音書 4:20
言うまでもなく、ここで言われる土地とは、人です。信仰の芽が出る人は、実を結ぶのです。ちなみに、人間の始祖・アダムは土から造られました。私たちがイメージしている土とは、きっと何かが違うのでしょう。エデンの園の清い土です。ともかく、これは単なる言葉のアヤではないと思います。さすがは神様だなぁと賛美せずにはいられません。これに気づいた時の私は、思わず歓喜でした。
伝道の種は成長し、信仰の実がなる
また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
新約聖書 マルコによる福音書 4:26-29
種の大きさはまったく関係ない
それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
新約聖書 マルコによる福音書 4:31-32
かつての私のような、「たまたま見かけた」ような小さなきっかけでも、種は種です。信仰の花は咲きます。現に私は、今から約一年前にドリーン・バーチュー氏によって聖書を知り、その一年後の現在では、このブログを作ってしまうほどには、聖書に対するただならぬ熱意に満ち溢れるようになりました。
どうしても、聖書の素晴らしさを人に伝えたくて仕方がありませんでした。そして、たった一人でもいいから、「教えてくれてありがとう。聖書の神様に出会えました」という体験をしてほしいと心から願っています。ここに宗教だとか、団体だとか、何かしらの利権などは関係なく、私個人の幸せを願う純粋な思いから来ています。聖書との出会いは、本当に素晴らしいです。
【まとめ】聖書との出会いは神様からの恵み
聖書を読み、聖書の神様を知った今、私はこの聖書を一人でも多くの人に述べ伝えるべきだと強く感じています。それこそ、生涯かけて。ある意味では、知ったからこその使命感に近いものですね。聖書による救いは、人を死から引き上げるほどの力があると思っているからです。
かつての私は、人生を終わりにしたいと本気で思っていました。もうすべてがつまらなく、生きている理由が本気でわからなくなりました。労苦と悲しみばかりの人生、もう本当に嫌でした。誰に愛されているのかもわからず、それどころか、私が今ここで死んでも、悲しんでくれる人はいるのだろうか?と暗い気持ちになったこともあります。もはや修復できない葛藤を、神様はすべて掬い取ってくださり、私にあらゆる恵みを与えてくださいました。
神様の恵みは、本当にあります。そして、これ以上ないほどに最高最善だとのちのちハッとさせられるほどに理解できます。この祝福を預かった私は、かつての私のように、「人生に疲れた人」にこそ聖書と出会えるようにと、活動していきたいと思っています。
ここまでお読みいただき誠にありがとうございました。