【お金の証し】神様は、子を飢えさせない

    私は昨年、人生で初めて多額のお金を失いました。半年のうちに2回引っ越しをしたことです(2023年11月)。この経験で、私は神様のとんでもない力を目の当たりにしました。これ以来、お金に対する見え方が私の中で変わっていきました。

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    お金を失った経緯

    半年で2回の引っ越しをしたことで、私の貯金は一気になくなりました。もともと収入は高くなく、また家賃は高く、貯金に回せるようなやりくりは私はできていませんでした。つまり、今回の引っ越しにて、私はお金が完全になくなりました。ちなみに、どうして2回の引っ越しがあったのかは、詳細は別記事(→こちら)にて。

    お金を得た経緯

    私はこの時、クリスチャンになりたてでした。今でも思うのですが、これが私の命を繋いだ大要因だと思っています。どういうことかといいますと、神様が助けてくださったからです。お金がない時、お金は予期せぬところからやってきました。ある方が助けてくださったのです。予想外の方で驚きました。そして、涙が出るほどの感謝でいっぱいになりました。この方にも感謝ですし、すべてをご存じで助けてくださった神様に感謝です。

    「神様に祈ってみてください」

    大前提、自分のお金の無さを人に話すなど、絶対に嫌だ・恥だと思っていた人間です。ですから、2回の引っ越しでお金が本当になくなる(というか足りない)ことは自分一人の中で思い悩み、苦しんでいました。そんな折、教会の牧師さんが心配してくださいました。この時、こう言われたんです。「神様に祈ってみてください。必ずさきさんを助けてくださるから」と。

    ところが、それを聞いた私は心の中でこういいました。「祈っている場合じゃないです、すぐにでもお金をつくらないと」と、心の中は余裕などありませんでした。ですから、「あれ売ろう、これ売ろう」と自分の持ち物を手放す計画を心の中で始めていました。

    人間の力では、完全にお手上げだった

    計画至上主義のような世の中ですが、自分の心の計画は上手くいかないものです。私はもう、どうすればいいのかわかりませんでした。生きる気力すら失いそうなほどに、現実に絶望していました。完全に降参した私は、神様にすがるようにお祈りをしました。今思えば、この時の祈りは、本気の祈りでした。引っ越しのダンボールが置かれたままの狭い部屋で、私は一人小さくなってずっと涙を流して祈っていました。

    それからそう時も経たずに、事態は急変しました。意外な人から、急にお金をいただきました。数少ない、私の事情を知っている方で、心からの心配と共に引っ越し資金を援助していただきました。さらに、次の引っ越し先が好条件で見つかったのです。地獄から天国へと、一気に引き上げられた感覚でした。

    一連の技は、すべて神様の計画の中にある

    道が閉ざされていたと思っていた私が、新しい道を開けていけたことをお伝えしました。この時から確信します。神様は子(クリスチャン)の願いを聞いてくださる方だと。いえ、願いという言葉は違うかもしれません。必要を満たしてくださる方と言えるでしょう。これは、ご利益主義な話ではありません。ただただ、憐れみです。私の信じる神様は、どこまでも慈悲深いお方なのです。

    お金も何もない私に、まるで無から有を生み出すかのように、天地万物を創造された神様は私を憐れんでくださいました。この驚くべき御業を体験した時、人間の計画や思いというのはちっぽけであると気付かされました。

    ところが、お金の魔力は凄まじい

    この話には、続きがあります。そもそも、私が過去の話を今取り上げて記事にしているのにも由縁します。結論からいいますと、お金との向き合い方がようやくわかってきたからです。何が言いたいのかというと、この引っ越し後、私は神様から離れてしまいました。詳細は別記事(→こちら)にて。

    事を完結にいいますと、欲が出てきたということ。お金を欲しがったことです。この引っ越しで、お金の重要性を体感的に理解し、何が何でも欲しいという思いに駆られました。すると、神様からだんだんと離れていったのです。あれだけ涙を流して神様に祈り、聖書をたくさん読み、まっすぐに神様を見つめていたのに。これが、お金の魔力です。

    神様か、お金か

    どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。

    新約聖書 ルカによる福音書 16:13

    「どうして神様から離れてしまったんだろう・・・?」これは私の疑問でした。自分の行動なのに、自己把握できていませんでした。なんというか、お金に対して首っ丈でした。大好きで、求めて止まず、恋は盲目かのように一直線になっていましたから。その答えは、聖書のこの御言葉でした。ふたりの主人とは、神様かお金か、ということ。

    お金は神様に並べられるほどに強い力がある

    富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陷るのである。 金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。

    新約聖書 テモテへの第一の手紙 6:9-10

    もう、この御言葉にすべてが述べられています。お金第一に求めていくことが、悪なのです。ちなみに、お金そのものが悪と言ってはいません。お金を求めることが悪なのです。

    悪とは、神様から離れるということ。クリスチャンの私にとっては、絶対に嫌なことです。神様から離れたくありません。この方こそ、私の真理であり、道であり、命なのです(ヨハネ14:6)。

    お金という偶像崇拝

    そもそも、お金とは何でしょうか。人の命と同等か、それ以上かのように扱われているのがお金ですよね。聖書にも、お金のことはたくさん書かれています。お金ではなく、神様を第一に、と書かれています。しかし、だからといって「もう仕事しなくていいや」「稼がなくていいや」とは書かれていないどころか、怠惰なことは叱咤されています。

    答えはシンプルなんですよね。何を第一にするのか。ファーストにするのか。お金ですか? それとも、神様ですか?ということ。クリスチャンではない方は、神様を知りません(私はこのことを伝えたい)。ですから、お金が第一になってしまうのです。お金さえあれば何でもできると、幸せになれると、自分を守ることができると。確かにお金は必要です、大事です。私も身をもって理解しています。ですが、ファーストにしてはいけないのです。この時、神様から離れてしまいますから。

    偶像の背景には悪霊がいる

    世の中の人は、悪霊がいることを知りません。「頭おかしいんじゃないか」と、バカにする人もいます。ある意味では当然です。見えません、聞こえませんから。ですが、聖書にはお金と同じくらいに悪霊のことも書かれています。この悪霊は、人を苦しめるために働いています。アダムとエバが罪に堕ちた原因も、悪霊であるサタンの仕業でした。

    悪霊にコントロールされると、幸せはあり得ません。何かしらの形で破滅します。お金があるから幸せではなく、権威があるから、肩書きがあるから、有名だから、自由だからと幸せではないのです。本当の幸せは、神様の御手の中で大切にされること、神様と共に人生を歩むことです。

    神様を第一に生きること

    神様であるイエス・キリストは、悪霊と私たち人類のくびきを無効にするためにやってこられました。何の罪もないご自身が死ぬことで、私たち人類の罪の対価を肩代わりされたのです。アダムという一人の人間から始まった罪が、イエス様という一人の人間であり神様の霊をもったこの方によって清められたのです。

    ですから、私たちは悪霊に支配されてはいけません。私たちを救ってくださったイエス様を第一にすることが、幸せの道なのです。これは奥義なので、宗教だとか、気の持ちようだとか、弱い人の幻想だとか、そういった類の話とは別物です。

    【さいごに】神様はすごい方なので、お金も加えて与えてくださいますからね

    ここまでお読みいただくと、ある誤解があるかもしれないと危惧しました。お金よりも神様と言うと、「じゃあ貧乏になれってことですね」と湾曲されるかもしれないなと。ご安心ください。神様は本当に慈悲深いお方です。子(クリスチャン)をどれほど愛おしいと思っているのか、聖書を読めば読むほどにわかります。そんなお方が、貧乏で苦しみの中を生きることが良しだとは思われていないと私は思っています。試練としては、貧乏もお許しになられるでしょう。しかし、恵み深い神様は、私たちの必要をすべてご存じです。

    それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。 空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。 あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。 また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

    新約聖書 マタイによる福音書 6:25-34

    必要は必ず与えられます。

    神様を第一に生きた時、それらは与えられるのです。

    私は神様を信じています。

    これが私の信仰です。

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