生きていると、「何故ですか」と嘆きたくなる時がある。
いじめられた経験、第一志望に受からなかった経験、
適応障害になった経験、お金の損失の経験、
大切な人を失った経験、恥をかいた経験、
生きていると、本当にたくさんの嘆きが多い。
これらは忘れることがなく、心の棘になっているのだ。
「何故ですか」この疑問は
私がクリスチャンになってからもずっとあった。
そして、1つわかったことがある。
これらの嘆きがなければ、私は決して聖書に辿り着かなかった。
すべてが思い通り、順調だったら、私はどこまでも高ぶっていた。
人を思いやる気持ちや、心の弱さ、お金との葛藤、
さまざまな欲で、思いのままに走っていたのかもしれない。
生きていれば、試練はある。
しかし、その試練をも許可したのは神様なのだと知ると
ここには何か意味があるとわかる。
この時、「何故ですか」はなくなるのだ。
そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
新約聖書 コリント人への第二の手紙 12:7