【心の渇き】「人は何のために生きるのか」いくら頑張っても常に何かを求めていませんか?

    私は小学4年生あたりから、人生に渇きを感じていました。この感覚は、今思えば虚しさに近かったと思います。そして、大人になってからも、この渇きを真に癒せるものは見出せませんでした。何が言いたいのかというと、最終的には『神様と出会うこと』のみ癒されます。何故なら、人の歴史が始まって以来(アダムとエバ)、どこを切り取っても、根本的には神様を求めていたからです。ここにしか、人の安らぎはないからです。あとは全て、乾きます。

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    あなたの心は乾いていますか?

    乾いていると自覚されている人は、ある程度、自分のことを客観視できていると思います。それゆえ、さまざまなことに挑戦してきたことでしょう。人生に積極的なタイプです。私もそのタイプでした。一方で、惰性で生きている人も多いです。快楽に逃げがちです。または、それをゴールに追い求める傾向があります。

    どんなタイプであれ、あらゆる人がそれぞれの自分の思いに従って、何かを求めているのです。「どうしたら幸せになれるだろう(幸せを感じられるだろう)?」と。お金や仕事、恋愛、結婚、子供、旅行、地位、家、美容、装飾、お酒、性的嗜好、さまざまな分野に注力しては、自分なりの幸せを求めていこうと生きています。しかし、根本的には心が乾いているのです。

    何のために生きているのか?

    上記で述べたことは、自分の幸せを追求したときのお話です。かつての私は、仕事第一でした。生活のために、なんとなく仕事をするという人もいれば、使命のように仕事に生きる人もいますよね。私は後者でした。それゆえ、他のことは後回しになることも多かったです。それがやりがいになりましたが、ある時に気づきました。私の心はまだ乾いていると。ここでわかったことは、自分のためだけに生きていても、いつまでも飢え乾くということでした。

    誰のために生きているのか?

    では、誰か大切な人のために生きるのか? 結論からいいますと、人ではなく神様のために生きると自覚することです。どういうことかと言うと、人は不完全であり、また、自分が生まれてきた理由とは関連付けられないからです。確かに、例えば結婚した相手が大好きで運命的に感じたとしましょうか。しかし、結婚相手を偶像視するのは、ある意味では依存です。子供も同じです。大切な人がいるのは素晴らしいことですが、一歩間違えれば、偶像や依存でしかないのです。

    神様のために生きるというよりも、その目的を理解すること

    神様のために生きるとは、一体どういうことでしょうか。神様を信じている人ならまだしも、「神様っているの?」「なんか宗教っぽくて怖いなぁ」「それこそ依存では?」など、さまざまな意見を抱く人もいるでしょう。私もかつてはそうでした。まるで、弱い人がより縋るための精神的な概念かのように思っていました。しかし、すべて的外れです。何故かというと、人は自分の起源(ルーツ)を知らないからです。つまり、それを知れば、神様に辿り着きます。

    聖書を読み、神様を知り、自分の生まれてきた意味を知った

    私が神様を知る前は、私にとっての神様は『自分自身の力』でした。例えば、仕事です。自分の努力や才能によって、キャリアの道を切り開いてきたのだと過信していました。そして、それが自分のアイデンティティになっていたことがありました。しかし、しかしです、これらの力すらも、神様が私に目的あって授けたものであって、私自身の力ではなかったのです。人それぞれ姿形が違うように、力も違います。性格も声も、心の思いも違います。それだけなのです。私が母の胎内にいる頃から、私が設定したのではありません。神様が私を『初めから終わりまで、すべて計画して造られた』のです。

    主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。

    旧約聖書 エレミヤ書 29:11

    人には自由意志が与えられている

    神様は私たちを造られた時、幸せに生きられるように計画を立てられました。これは、人それぞれに用意されています。ですが、同時に自由意志も私たちに与えてくださいました。ですから私たちはロボットのように生きているわけではなく、自分で考えて生きることができるのです。何が言いたのかというと、自分を過信して生きることもできるし、神様による私の人生の計画を生きることもできる、ということです。どちらも自由意志で選べるのです。

    【さいごに】人生の道

    私を例に挙げれば、神様を知る前は、自分の力に頼っていました。過信していたと言った方が正しいです。上手くいく時もあれば、悲しい時もたくさんありました。総じていえば、自分で言うのもあれですが、苦労の多い人生でした。しかし、神様に出会い、神様に私の人生の舵を委ねました。その時、信じられないほど素晴らしい道を切り開いてくださいました。そして、何よりも心に安心感が生まれました。生きることへの不安ではなく、もう何があっても大丈夫という満たされた思いが与えられました。神様は惜しみなく、私に必要なものを与えてくださり、悪意から守ってくださり、平安を心に宿らせてくださいます。

    イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。

    新約聖書 ヨハネによる福音書 4:13-14
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