「空」と聞くと、私たちは自然に「無限に広がる空間」を思い浮かべませんか? そして、闇と銀河の広がる宇宙空間に続いていると。自分の目で見たことはなくても、映画などでイメージしやすいかもしれません。私もそうでした。しかし、聖書を研究していくうちに怪しく思えてきました。特に、ヨブ記で言われた空はどうもそのイメージとは異なっているように思えるのです。そんなわけで、聖書に基づいた空を、不思議に面白く、真理を意識して探っていきたいと思います。
空は本当に「空間」なのでしょうか

あなたは神と共に、鋳た鏡のように堅い大空を張り広げたか
旧約聖書 ヨブ記37章18節
空は空間でありながら、同時に、制限があるものとして想像できないだろうか、と。それは、↑上記の聖句を見たからです。大前提として、私はこの世のあらゆるものが「まやかし」に感じる時があります。いかにも本物に見せて、偽物や、嘘を交えたもので溢れかえっているなと。すべてとは言いません。しかし、目に見たことだけを100%信じるのは愚かだと思うのです。
空は誰でも目に見えますよね。顔を上げれば、青い空に白い雲。曇りだったらグレーでしょうか。色々と表情が変わりますが、空は空。しかし、この日常でも目に見える空とは、一体何でできているのか、本当のところは分かりませんよね。
ヨブ記に描かれる「堅い大空」
ヨブ記において、空は人が理解し、管理し、征服する対象としては描かれていません。むしろ、その逆です。
- 神によって張られたもの
- 固められたもの
- 人間の知性が及ばないもの
として語られています。神様はヨブに、その壮大さを伝えていますが、それが何であるかは答えてはいません。ただただ、人智では及びもしないものとして語られています。正直、ここらへんはすごく面白いので、クリスチャンだとか関係なく、ヨブ記単体でも読んでほしいくらいです。(ちなみに私はクリスチャンになる前、聖書ではじめて読んだのがヨブ記でした)
「天の窓」という聖書の言葉
ヨブ記を読めば、空は空間ではあるけれど、空間にも制限があることがわかります。何か仕切りのようなものがあるのだなと。ここで思い浮かぶのが、聖書に繰り返し登場する「天の窓」という表現です。非常に適切かつ、理屈では説明できない不思議な言葉です。
しかも、他の箇所でも天の窓という表現は出てきます。創世記のノアの洪水での説明では、「天の窓が開かれた」と記されています。つまり、天の窓とは、単なる詩的表現ではなく、かといって人が操作できる物理的装置でもないということ。その決定打は天におられる神様にあるということ。概念でありながら、構造を感じさせる言葉です。理解しがたい不思議です。
マラキ書における「天の窓」──霊的に開かれるもの
さらに興味深いのは、マラキ書です。個人的に、とても大好きな聖句です。話は少しずれますが、この聖句を信じてクリスチャン人生を歩んできたと言っても過言ではありません。本当です。それくらい力強く、とにかく励まされます。
わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。
旧約聖書 マラキ書 3:10
ここでの「天の窓」は、洪水のような物理的現象ではありません。むしろ、霊的な話。神様との関係性において、祝福や恵みが注がれる霊的・概念的な「開かれ」です。
ですので、「天の窓が開く」という表現は、常に同じ意味で使われているわけではなく、神様の側から私たちのこの地上世界へ働きかけが起こる状態を指しているように思えます。
大空そのものが「天の窓」だとしたら
ここで、ひとつのイメージが私に浮かびました。もしかすると、私たちが見上げているあの大空全体が、天の窓なのではないか・・・と。
ヨブ記の「堅い大空」は、天と地を隔てる境界のようにも見えます。そして他の箇所でも出てくる「天の窓が開く」とは、その境界が、神様の意志によって一時的に開かれているということ。まるで扉や窓のように、パカっと。
再臨において開かれる「天」

そうなると、クリスチャンとしては再臨まで連想させませんか? イエス様の再臨について、聖書はこう語ります。まず、イエス様の再臨とは・・・
- 一部の人だけが見る出来事ではなく
- 全世界が目撃する出来事であり
- 「すべての目がそれを見る」とされるものです。
ですから、人が天へ到達することではなく、神様(主イエス様)の側から、天が開かれる出来事だと考えることができます。マラキ書の「霊的な開かれ」とは異なり、再臨は、世界そのものが巻き込まれる決定的な「開かれ」です。
フラットアース的イメージの面白さ
ここで誤解を避けたいのですが、私はフラットアースのお話しをしたいわけではありません。ただ、過去の記事ではいろいろ取り上げてはいます。ただ、この話を陰謀論の方向に持っていきたくはないのです。もっと神聖な意味があるなと。なぜなら、
- 上に天があり
- 下に地があり
- 両者の間に境界がある
というイメージがフラットアース的世界観にはあります。しかし、それだけだと陰謀論に走ってしまうのも仕方がありません。意味がわからないですもんね。しかし、聖書には意味が書かれています。神様という存在を知ることが意味なのです。
空を見上げるということ
空は、人間の力で通ることができず、壊すこともできず、そもそも何でできているのかも分かりません。だからこそ、人は昔から空を見上げてきたのだと思います。到達するためではなく、神様がおられるという畏れと、主イエス様による再臨という希望を向ける方向として。
意味があるから、そう造られているのです。
聖書に書かれていること
空は、本当にただの空間なのでしょうか。ヨブ記の言葉を借りるなら、それは「鋳た鏡のように堅い大空」です。そして再臨のとき、その大空が天の窓として、全世界に向けて開かれる・・・。そう思うと、
今日見上げる空も、少し違って見えてくるように感じます。そして、私たちの知らない本当の宇宙空間があるのでしょうね。もしかすると、それが天国なのかも?とか思ったり。
聖書を読み、空に思いを馳せたいと思います。


