【聖書とお金】クリスチャン必見! 本当の経済回復と富の責任

    クリスチャンというと、清貧なイメージを持たれているかもしれませんね。お金を求めず、神様を第一にと。確かにそれは正しいのですが、清貧であれとは聖書に書かれていません。むしろ、その逆。神様を第一にしたとき、神様は必要なものを必ず与えてくださり、しかも溢れるほどにと約束しておられるのです。そんなわけで、聖書に書かれているお金の話と、本当の付き合い方を、聖書を読むクリスチャンの私が語らせていただきます。

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    お金と心は繋がっている!?

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    思い込みというのは時に恐ろしいものです。信仰を持つなら、お金を求めてはいけないのではないか?なんて思う人もきっといらっしゃるかと思います。それは、お金に関心を持つこと自体が、どこか罪深い気がするとった「お金=悪、罪」といったイメージを抱いているからなのかもしれません。だからこそ、富といった豊かさを願うことは、不信仰なのではないかという信念体系を抱くことも・・・。

    まず、こうした感覚は、決して個人の弱さではありません。時代が進むにつれ、お金と心は別分野として分けられてきたからです。そもそも、現代を生きる私たちから見れば、お金と心は別物であって当然な見え方をしているでしょう。むしろ、今私が言っていることは「何言ってるんだ?」なんて訝しんで当然です。それくらいに、真実がわからなくなっている人が全体の98%いることでしょう(クリスチャン人口1%+α)。つまりは、「宗教は心、お金は現実世界」という分野がわかれてしまったということ。


    お金か神か、どこから生まれたのか

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    時代が進むにつれ、経済活動は「現実世界のもの」「合理的なもの」として信仰(心)から切り離されていきました。その結果、「神を信じるなら、経済から距離を置くべきだ」という意識をもつ人が増えたのです。この風潮が強まり、人々の心には「お金か神か」という二者択一の意識が深く根づいていきました。

    しかし、この分断は本当に聖書的なのでしょうか? たしかに、聖書には二心を持つ者を避難されています。しかし、それは優先順位の話であり、お金を悪としてとらえていい話ではないのです。

    だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。

    新約聖書 マタイによる福音書 6:24

    聖書に登場する人々は、富とどう向き合っていたか

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    聖書を丁寧に読んでいくと、「お金と神の対立」という構図は、実はどこにも見当たりません。それも当たり前です。なぜなら、お金すらも神様の支配下にあるからです。

    万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。

    新約聖書 コロサイ人への手紙 1:16

    ヨハネは答えて言った、「人は天から与えられなければ、何ものも受けることはできない。

    新約聖書 ヨハネによる福音書 3:27

    お金だって、神様の支配のもと。権威も神様にあります。人は与えられたものを受けるのみ。人の力でお金を手に入れたという考えは、あまりにも高慢かつズレています。この事実は聖書を知らずして、誰も理解できない奥義だと私は思っています。

    さて、この奥義がどういうものなのか、具体的に見ていきましょう。実は聖書には、非常に豊かな富を持つ人がたくさん登場しています。それも、ちょっと小金持ちなんて程度ではありません。とんでもないリッチマンたちがたくさんいるのです!

    アブラハム

    時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。

    旧約聖書 創世記 12:1-2

    アブラハムは、慣れ親しんだ土地を離れ、神様の声に従って未知の地へ踏み出しました。「神様を信じ → 従い → 人に与え → 何倍にも増して祝福された」という神様の祝福を受け継いだ人物です。これは、神様だけの持つ天の法則であり、アブラハムをそれを与えられた・体現した人物です。彼は信仰のゆえに、子孫と土地、そして富を授けられました。心もお金も豊かに与えられたのです。

    ヨセフ

    裕福な家庭に生まれたヨセフは(アブラハムの系図)、兄弟たちに裏切られ、見知らぬエジプトの地へと身を売られてしまいます。しかし、神様から与えられたビジョンを信じ、人々の裏切りや投獄という試練の中でも神様への信仰を失いませんでした。その結果、国家の経済を管理する立場に立ち(今でいう大統領的な立ち位置)、莫大な富を預かることになります。立場も所有も、あらゆるものが豊かにされたのです。ヨセフは神様を信じ、身を委ね続けたのです。

    これらの物語が語っているのは、神様を第一にすると、富は後からついてくるということ。いえ、富どころではありません。立場や権威、人々の賞賛も、何もかもすべては神様の摂理のうちに与えられるのです。

    ソロモン王

    父ダビデ王の息子・ソロモン王は、富や長寿を求めませんでした。彼は権威ある王座についた時、神様へと願い求めたものは知恵でした。「民を正しく治めるための知恵」を神様に求めたのです。

    ソロモンは言った、「あなたのしもべであるわたしの父ダビデがあなたに対して誠実と公義と真心とをもって、あなたの前に歩んだので、あなたは大いなるいつくしみを彼に示されました。またあなたは彼のために、この大いなるいつくしみをたくわえて、今日、彼の位に座する子を授けられました。 わが神、主よ、あなたはこのしもべを、わたしの父ダビデに代って王とならせられました。しかし、わたしは小さい子供であって、出入りすることを知りません。 かつ、しもべはあなたが選ばれた、あなたの民、すなわちその数が多くて、数えることも、調べることもできないほどのおびただしい民の中におります。 それゆえ、聞きわける心をしもべに与えて、あなたの民をさばかせ、わたしに善悪をわきまえることを得させてください。だれが、あなたのこの大いなる民をさばくことができましょう」。

    旧約聖書 列王記上 3:6-9

    なんという祈りでしょう。権威ある者の、莫大な富を任された者の責任を、ソロモンは確かに理解していました。私利私欲のためではありませんでした。神様を第一にし、使命を優先した結果として富も知恵もすべてが与えられたのです。


    お金は、人の心を映し出す「鏡」である

    お金 聖書

    古代ローマから現代に至るまで、経済格差は常に人々の心を揺さぶってきました。成功者は称賛される一方で、嫉妬や憎悪の対象にもなります。

    「お金持ちは、きっと裏で悪いことをしているに違いない」この偏見は、時代を超えて繰り返されてきました。ここで重要なのは、お金そのものが人を堕落させるのではないという点です。あなたの言葉の通り、

    お金は鏡である。人の心の中にあるものを映し出す鏡。・・・欲望、恐れ、嫉妬、愛、感謝――それらが、お金を通して可視化されるに過ぎません。


    「マモン」とは何か|聖書が警告している本当の対象

    お金 聖書

    聖書が繰り返し警告しているのは、「お金」ではなく「マモン」です。マモンとは、単なるお金のことではありません。お金に人格を与え、神のように扱うこと。つまり、「お金を神格化するな」という警告です。「お金を持つな」ではなく、「お金に心を支配されるな」これが聖書の一貫したメッセージです。


    欲望は悪なのか|信仰が欲を導くという視点

    聖書 欲望

    多くの人は、信仰と聞くと「清貧」や「欲を捨てること」を思い浮かべます。しかし、欲望そのものは、神が人に与えた生存と成長のエネルギーでもあります。

    • 知りたい
    • 家族を養いたい
    • 社会に貢献したい

    これらもすべて、欲望の一部です。信仰の役割は、欲を否定することではありません。欲を正しい方向に導くことにこそ意味があります。


    心と経済を切り離すことの矛盾

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    現代社会では、「稼いでさえいれば幸せになれる」という考えが広く浸透しています。その結果、心の問題は後回しにされ、経済だけが肥大化していきました。しかし、心と経済を切り離すことは、一見合理的に見えて、実は深い矛盾を生み出します。下記、イエス様の言葉は、心の優先順位が整えば、経済も整うという原則を示しています。

    まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

    新約聖書 マタイによる福音書 6:33

    お金は愛を具体化するための力

    精神的に辛い時 神は愛なり

    聖書の真理を探っていると、お金は「神様からの預かりもの」だということがわかります。自分の贅沢のためではありません。「愛の手段」としての使い方でもあるのです。そして、お金に支配されないこと。信仰者が貧しさを美徳としてお金を避け続けたら、困っている人を助けることもできません。聖書が示すのは、「お金を愛するな。しかし、お金を愛のために使え」という逆説的な真理です。


    神を第一にする生き方へ

    聖書 黙想 学び

    神様を第一にすることは、抽象的な精神論ではありません。それは、

    • 時間
    • お金

    この三つの領域に、はっきりと現れます。「お金は自分のものではなく、神様のもの」という意識は、単なる献金の話ではありません。それは管理者としての責任を思い出す行為です。与える人は、結果としてさらに与えられます。なお、これは信仰だけでなく、心理学や経済学の視点から見ても裏づけられています。


    豊かさとは「持つこと」ではなく「満ちている意識」

    お金 聖書

    主はわたしの牧者であって、 わたしには乏しいことがない。 主はわたしを緑の牧場に伏させ、 いこいのみぎわに伴われる。 主はわたしの魂をいきかえらせ、 み名のためにわたしを正しい道に導かれる。

    旧約聖書 詩篇 23:1-3

    この言葉は、外側の状況ではなく、内側の意識の転換を示しています。これこそ、私たち人間が求めている平安なのではないでしょうか。年収、資産、フォロワー数――それらは現代の「見える信仰」ですが、比較は人の心を休ませません。私たちの価値は、

    • 口座残高でも
    • 肩書きでも
    • 他人の評価でもない

    神様の子・家族としての存在そのものが、最高の富なのです。これを本当に信じるに至るまでも、また神様から与えられた賜物だと思います。そして、求めれば誰にしても与えられます。

    求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

    新約聖書 マタイによる福音書 7:7

    結論|神様を第一にしたときに

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    聖書が本当に語っているのは、お金を持つなではなく「お金に仕えるな」ということです。神様を第一にし、お金を愛や奉仕のために用いるなら、それは偶像ではなく祝福になります。

    ゆえに、「お金か神様か」という問いは、そもそも間違っています。本来問うべきなのは、神様を第一にしたとき、お金をどう生かすかということ。お金は罪ではありません。それは、神様があなたを通して流そうとしている愛の形なのです。私たちがお金をどう使うのかということでもあるのです。

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