私は2023年に聖書と出会い、神様とはどんな方なのかを知り、クリスチャンとなり、現実から目が覚めました。あれから3年・・・この2026年、私は自分なりに感じている使命があります。それは、日本人の多くが神様のことを知らないということ。キリスト教だとかなんだとか、勧誘をしたいわけではありません。魂を救いです。それは来世でもあるし、今この現実でも言えることです。同じ日本人として、本当にしっかりと考えてほしいことがあります。
日本人はわけもわからずに拝んでいる

多くの日本人は、自分を「無宗教」だと言います。しかしお正月になれば、何の疑問も持たず神社に行き、賽銭を投げ、手を合わせます。
まず、私は日本の宗教文化が好きではありません。お正月は大混雑の中、神社に参拝しますよね。そして、何かにあやかりたくてお守りを買ったり。運勢を知りたくておみくじを引いたり。かと思えば、クリスマスを祝ったりなど。近年ではハロウィンもでしょうか。こういった多文化の起源を知らず、興味もなく、それでも何かを求めて「拝んでいる」「楽しんでいる」のが多くの日本人。かつての私もそうでした。
この光景を見て、「おかしい」と思ったことは本当にないのでしょうか。多文化主義といえばそれまでですが、そのわりにはわりと本気ですよね。そこに費やすお金、時間など、イベントごとに踊らされているわけです。
ご利益ばかりを求める姿は、信仰ではない
日本の宗教的行動の中心にあるのは、ほぼ例外なく「ご利益」です。幸せになりたいのは人間本能として当たり前だとは思いますが、欲求が強いんですよね。日本人は慎ましいだとか言われているようで・・・実のところ、その逆だと私は思っています。
- 病気が治りますように
- 失敗しませんように
- お金に困りませんように
祈りの内容は、徹頭徹尾、自分の都合です。他者は救われているでしょうか。社会は良くなっているでしょうか。自分自身の生き方は、問われているでしょうか。ほとんど何も問われていません。自分さえよければ、という心を育てかねないとすら思っています。精神的にきわめて稚拙な自己中心性の温存だとも思うわけです。言い過ぎかもしれませんが、多文化・他宗教の「いいとこ取り」をして無思考に考えてお祭り騒ぎをするようでは、子供です。
宗教とは何なのか
宗教とは、本来何のために存在するのでしょうか。
- 苦しみの意味を示すため
- 罪や過ちと向き合うため
- 人生と死に、答えを与えるため
少なくとも、人を救うために存在するものではないでしょうか。とはいっても、これは綺麗事かもしれませんが。人間には何かもっと上位の大いなる存在を求めずにはいられない心がプログラミングされていると思わずにはいられません・・・。
ただ、日本の宗教文化、とりわけ神道には、
- 何を信じれば救われるのか
- 何が善で、何が悪なのか
- 人はなぜ生き、なぜ死ぬのか
こうした根源的問いへの答えがありません。驚くほど、沈黙しています。願望(欲望)を願うばかりのご利益宗教です(もはや宗教といえるのか)。「拝むこと」だけは求められますが。私はここに、強い違和感を覚えます。一体何をしているのだろうかと疑問を思ったことはありませんか?何に対して、何をありがたく拝んでいるのだろうかと。
神道は、そもそも宗教として定義されていません
ここで重要な事実があります。一般に宗教とは、開祖がいて、教典があり、教義があるものです。これに良し悪しは言わず、純粋にこの定義で見れば、世界の宗教で「宗教でないもの」は存在しません。しかし、神道は例外です。
- 明確な開祖がいない
- 統一された教典がない
- 人生観・救済観としての教義がない
つまり、宗教の条件を満たしていません。アミニズム文化とも似ていますね。八百万の神文化。実際、歴史的にも神道は意図的に「宗教ではないもの」として扱われてきました。日本には不思議な文化というか、信仰があります。それが天皇制。
日本の宗教観は国家維持装置そのもの
明治以降、日本政府は神道を「宗教ではない」「国民的伝統」「国家儀礼」として位置づけてきました。理由は明確です。宗教としてしまうと、信教の自由や政教分離が問題になるからです。その結果、神道は
- 天皇を中心に据え
- 国家への帰属意識を強め
- 国民の思考に深く入り込む
政治的・思想的装置として機能してきました。現代でも、天皇に対して何かすごい存在かのように拝んでいますよね。同じ人間であるのに、扱いが違います。これは一体何なのでしょうか・・・。信仰ではありません。国家を維持するためのシステムなだけです。
「日本人の常識」が、思考を奪ってきた
神道の最も危険な点は、人に「信じている自覚」を持たせないことです。
- 日本人なら当たり前
- 昔からそうしている
- みんなやっている
こうして神道的価値観は、信仰ではなく「常識」として刷り込まれてきました。だから、神社への参拝も何かにあやかりたいがために足を運ぶのです。お賽銭の意味もよくわかっていないでしょう。そもそも、あの空っぽの神社に何がいるというのでしょうか。このような伝統を続けてきた結果、どうなったでしょうか。
- 疑問を持たない
- 問いを立てない
- 考えない
無宗教なのではなく、無思考な人間が量産されてきました。これは、はっきり言って危険です。日本人の思考が奪われていると、私は憂いています。
お賽銭とは、思考を放棄する儀式です
賽銭箱にお金を投げるとき、多くの人は「何かいいことがありますように」と思っています。しかし、
- 誰に祈っているのか
- その存在は何者なのか
- なぜ願いが叶うと思っているのか
これを説明できる人は、ほとんどいません。よくわからないまま参拝している人も多いでしょう。「文化だから」で終わります。これは信仰ではありません。理由なんて無いも同然のまま、無思考に動いているだけです。
ちなみに、聖書ではこれをはっきりと偶像崇拝と呼びます。さらにいえば、神社には神様など存在しません。本当の神様はどこにいて、何をしておられるのか・・・それは聖書にしか書かれていません。これは、ヨーロッパの文化だとかではなく、全人類の起源にあたる内容です。
本当の神様が与えてくれるもの
聖書の神様は、概念ではありません。そして、人のつくったものに宿りません。そんなちっぽけなものには宿りません。宿るという表現もおかしいのです。この天地万物、人間をも造られた方は神社などに住んでいません。
- 罪を示し
- 悔い改めを求め
- 生き方の転換を迫り
無宗教であることが、危険なのではない
無宗教であること自体が、問題なのではありません(クリスチャンとしては、神様を知って欲しい思いはありますが、強制はできません・・・)。ただ、わけもわからずに、何かを拝んでいる行動をとっているkとに対して疑問を抱かず、無思考でいることが危険だと思っています。考えない人間は、
- 空気に従い
- 権威に従い
- 国家にも簡単に従います
歴史は、それを何度も証明してきました。それゆえ、私は日本の「今」と「これから」を憂いています。
本当に、このままで大丈夫なのでしょうか。日本人は私の同胞です。まやかしに囚われたまま生きて、そして死んでほしくはありません。目を覚ましてほしいのです。本当に拝むべき大いなる存在は、ただ唯一の主と呼ばわれる神様だけなのです。
それでも、私は日本に希望を持っている
無宗教と言われ、でもいろんな文化を好き勝手に取り入れて、まるで闇鍋のような状態の日本人に対して憂いを抱かずにはいられません。しかし、同時に素晴らしい性質を持っているなとも思っています。なぜなら・・・
- 素直さ
- 真面目さ
- 誠実さ
これらが日本人にいはあります。他の国ではあまり見られない、独特の空気感。もし日本人の多くが、雰囲気としての神様(概念的)ではなく、本当の神様ーーー人格的に語り、人間を救う神様を本当に知ったなら・・・。この資質は、必ず良い方向に働きます。日本の経済も復活するでしょうし、日本人の本来の気迫も復活し、本来持っている素晴らしさが広がる国になると思うのです。そこに、人の力は不要です。神様がすべて備えてくださいます。だからこそ、日本人の多くの人に、私は本当の神様を知ってほしいわけです。ぼんやりとした魂を生き返らせてほしい。
目を覚ましてほしい
「日本人は無宗教だ、無思考だ」と攻撃ではありません。私なりの願いです。同胞の魂が復活してほしい、そして日本という国も生き返ってほしいと思うわけです。ここに、神様の存在なしで実現は不可能だからです。いかにすごい総理大臣がトップに立とうが、経済が回復しようが、国は人の集まりです。人が変わらなければ何の意味もありません。
今この現実で起きている、当たり前のように思っていたことを今一度考えてください。疑問を持ってください。それは本当に、あなたを助けているでしょうか。そもそも、あなたは何を思って行動しているのでしょうか。
無思考の安心から目を覚ましたとき、日本は、まだ変われる・・・私は、そう信じています。そして、偽りの神々ではなく、唯一の神様(今もなお天の上で生きておられ、ずっと見ておられます)この神様を知ってほしいです。
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
新約聖書 ヨハネによる福音書 1:1-4
はじめに神は天と地とを創造された。
旧約聖書 創世記 1:1
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。 神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。
旧約聖書 創世記 1:26-28


