今、東京で一人暮らしな私。心や経済状況が不安定で、正直これからどう生きていけばいいのかわからないです。そんな自分は、一体何をしているのだろう、何のために生きているのだろうと強い虚無を感じることがよくあります。それでも私が今こうして前を向いて、心が平安で歩んでいけるのは神様のおかげとしか言いようがありません。
自分の尺度で見る人生
私は冒頭で「不安定」だと言いました。この思いは、きっと今の時代では多くの方が同意される問題かと思われます。ましてや東京といった大都会の中で一人で生きていると、ますますそう感じるのではないでしょうか。
自分で自分を見る時、「安定しているなぁ」とはとてもでないけれど言えません。仕事は何度も転職しているし、家も賃貸かつ、毎月のお金もカツカツで、老後のお金うんぬんの話よりも、今をどう乗り切るかで精一杯。かといって、そこそこの贅沢は楽しみたいし、そう流れる自分の欲にもうんざりし・・・私は一体何のためにここにいるのかわからなくなる時があります。
道、閉ざされたり

私は思います、人生はまるで海のようだと。海(沖)のど真ん中で、安物の舟で漂っているかのような不安定さで。私の好きな讃美歌で「人生の海の嵐に」があるのですが、まさに人生を海に例えています。素晴らしい曲です。
歌詞のとおり、人生には突然大きな荒波がやってくることがあります。どこに向かっているのかわからないこともあります。または、向かっていたはずなのに、道がわからなくなったり。そして思うのです。「私はどこに向かっているんだっけ?」と。まさしく、道は閉ざされたと思うばかりなのです。
人生に目標はいらない
これまで生きてきて、私は人生に目標が必要だと思いました。舟の目的地ですね。特に、私は独身ゆえに一人で生きていかねばという強い思いもありましたので「成功」は人一倍求めていました。それが目的地でもありました。何に対する成功かは、今でもはっきりわかっていませんが、まぁ・・・お金とか地位とか、人よりも良い何かでしょうか。それは手段でしかないのに、私はそこから先の大義がありませんでした。
それゆえ、空っぽのような言葉になり、虚しく聞こえるかもしれませんね。私は思えば、ずっと抑うつ状態だったのかもしれません。それでも、目標は求められます。いえ、自分の中で起きている強迫観念でしょうか。これらに対して、いいようのない疲れを感じてきました。人それぞれの話にはなりますが、私には目標設定があまり合っていない気もします。目標にころされる感覚すらあります。
「なぜですか?」
私はクリスチャンです。約2年半前にバプテスマを受けてから、私は心から神様に従って生きていこうと決めました。そして、今日まで支えられて生きてきました。しかし、なんというか・・・「なぜですか?」と思わずにはいられない道を歩むことにもなっています。
クリスチャンというアイデンティティーをもって人生を歩んでも、その途端にハッピーになったなんてことはないのです。勝手に私がそう思っていただけですが。直近でいえば(もう退職したのですが)、適応障害になるほどに心傷ついた仕事が、私の人生の道にありました。

神様が導いてくださった道
聖書にはこういう言葉があります。私はそれを信じ、今日まで歩んできました。
すべての道で主を認めよ、 そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
旧約聖書 箴言 3:6
この御言葉にハッとさせられたのは、約半年前の就職活動の時でした。やっと出会えた会社、そこに転職しました。ただただ感謝でした。しかし、私は結局そこを半年足らずで退職するのでした。信じられないことですが、まさかの1000社以上を応募して、ようやく1社の内定がいただけた、唯一の道のような会社でした。詳細は下記にて。

聖書にはこう書かれている
それゆえ、神様に導かれた道だったのにと、がっかりしたのは事実です。それどころか傷つきました。私はその会社で詰められまくり、涙で退職することになったのです。それでも神様の御言葉は真実です。「すべての道で主を認めよ」と。だからこそ、この苦難の道もまた、主の御心だったのだと私は認めました。事実、主は私に新しい道を見る前からすでに教えてくださいました。
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
新約聖書 コリント人への第一の手紙 10:13
選択という自由意思は私のもの
私がなぜこの会社(退職した会社)に導かれたのか・・・私は勝手に思い違いをしていました。ここにいけばハッピーになれるのだと。しかし、現実はその真逆でした。毎日が涙でしたから。じゃあ、神様は私に何を教えたかったのだろうと瞑想することがありました。
一つわかったことがあります。恐れの克服体験です。これにはいくつかあります。まずは、「ここを辞めるんだ」と決めることでした。私はまだ入社してまもないのに、もう退職するのは良くないと思っていました。自分が我慢すればいいんだと、自分の精神状態を顧みずに耐え抜こうと思っていたのです。それ以上に、会社の人に対して恐れていて、退職を言い出すのが恐ろしかったのです。まずは、この「人に対する恐れ」の克服でした。
見えない未来を、それでも信じ抜く
わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、 わが道は、あなたがたの道とは異なっていると 主は言われる。 天が地よりも高いように、 わが道は、あなたがたの道よりも高く、 わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
旧約聖書 旧約聖書イザヤ書 55:8-9
聖書にはこのように書かれています。私の思いは神様とは違っていたのです。私の思いでは、「やっと手に入れた場所(仕事)で私はやっと安心できる」と転職に希望をもっていました。それどころか「ここで私はがっつりとお金を稼ごう!」と意気込んでいました。
しかし、神様が導いてくれた場所が安泰な地とは限らないのだと知りました。けれども、もっと大事なのはここから。神様は私を不幸にさせたいのではなく、その真逆です。現時点の私にはわからないのですが、神様は約束をしてくださいました。
人生を、恐れを委ねる教訓
主はこう仰せられる、 「あなたは泣く声をとどめ、 目から涙をながすことをやめよ。 あなたのわざに報いがある。 彼らは敵の地から帰ってくると主は言われる。 あなたの将来には希望があり、 あなたの子供たちは自分の国に帰ってくると 主は言われる。
旧約聖書 エレミヤ書 31:16-17
聖書を読んでいると、多くのクリスチャンも苦難の道を歩む中で、神様に従っていくうちに不思議な導きをもって平安へと導かれていきました。特に印象的なのは、奴隷として兄弟に売られてしまったヨセフです。彼はそれでも神様を信じ、すべての道で忠実であり続けました。そして、今でいう総理大臣になり、兄弟とも和解し、親とも再会でき、平安で豊かな人生を歩みました。それを思うと、神様はもっと別の場所へと私を連れていきたいんだと思うようになりました。
神様は人を通して働かれることもある
今の私は、仕事をしていません。会社は3月31日を以って退職しました。就職活動を続けながらの仕事の継続は、ここでは無理でした。まず時間的に厳しいのと(10~19時勤務+残業)、有給がまだないこと、また何よりも精神的に参っていたので面接もまともにできるか不安でした。何よりも、神様が「辞めた方がいいよ、あなたの心の方が心配です」と言っているように感じたからです。いえ、人事部長の方に相談した時でした。
私は心の中で「イエス様、今ここにきてください」と祈りました。人事部長の方は、初めこそ話し合いの中で解決しようとされていましたが、「辞めた方がいいかも」とやんわり諭されました。私はこの時、ショックもありつつ、でもホッとしました。
私の重荷をすべて背負ってくださった

それから私は、当然いく宛も決まっていないままに退職しました。世間一般的に見れば、非常に不安的なことでしょう。独身・東京で一人暮らし、お金もカツカツな女性にとっては、仕事なしで生きるのは死活問題です。いえ、女性だからとかの問題を超えています。それでも私の心は平安でした。通常の私だとありえない落ち着きようでした。
私は、本当の意味で主に身を委ねていました。起きたことを認める以前から、起きる前からすべての道で主を認め、身を委ねることを決めたのです。すると、不思議なことが起こりました。3月31日に教会にいきました。この時、前日の30日が最後の出社でした。その教会にて、たまたまお話した方から仕事の話をいただけたのです。これには非常に驚きました。直感的に、私は神様を感じました。
本当に不思議なことが起こった

第一に、私はもう就活に疲れていました。半年前まで、1000社を受けていたくらいですから。そして、またしても転職しなければいけない状況に立たされたわけです。しかし、私はこれを嘆くのではなく「恐れるな」と「私を信じよ」という神様のお働きを見るために与えられた体験だと理解したのです。すると、先日の教会で仕事のお話が舞い込み、結果的に決まりました。一度面接をしたキリです。面接疲れの私の心をも神様はご存知だったのでしょう。
なんという奇跡でしょうか・・・。涙なくては語れません。今にして思えば、私以上に神様は何もかもご存知でした。主は私をどこまでも救い、助けてくださる方。ほむべきかな。すでに救いの道を用意してくださったのです。まさかの、退職してから一週間で就活は終わったのでした。
「恐れるな」と言われる神様
人の形をした者は、再びわたしにさわり、わたしを力づけて、 言った、「大いに愛せられる人よ、恐れるには及ばない。安心しなさい。心を強くし、勇気を出しなさい」。彼がこう言ったとき、わたしは力づいて言った、「わが主よ、語ってください。あなたは、わたしに力をつけてくださったから」。
旧約聖書 ダニエル書 10:18-19
聖書には、365箇所に「恐れるな(思い煩うな)」と書かれているらしいです。私は検証したことがないので、都市伝説か何かのようにも感じますが、いえ、私はわりと本気で365箇所書かれているのではと思っています。
私たち人間は、常に不安と隣合わせです。少しの波でも恐れます。人生では度々起きます。まだ起きていない先から怯えてしまいます。私は典型的でした。それでも今、こうして主をまことに信じ、人生の海の嵐を乗り切りました。すべてをイエス様にお任せしました。これは信仰あっての力であり、私はもはや何もしていません。本当に、すべて主が働いてくださったのです。
恐れを手放した時、神様の計画は始まる
神様が私に抱いている計画は、もっともっと壮大なのだと思います。事実、聖書にはそう書かれていますし、私は実体験を通してそう信じずにはいられません。まさか半年前、感極まって決まった会社で適応障害になり、半年も経たずに辞めることになり・・・しかも、次の仕事を決まらない中で必死の中で退職をしたのですから。
そんな絶体絶命のような人生終了のような中で、なんと就職先を神様は与えてくださいました。しかも、自分史上最高速の一週間で。これはもう、神様の導き以外の何ものでもありません。人生に恐れることなく、神様を信じて生きることは単なる綺麗事ではなく、まことに真実です。アーメン。
わたしはあなたに命じたではないか。強く、また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも、あなたの神、主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」。
旧約聖書 ヨシュア記 1:9
私の目標は・・・
私の生きる意味は、イエス様を知ることなのだと思います。この方と出会って終わりではなく、この方がどんな方なのかを知り、自分の人生にどんな恵みと喜びと感動が与えられるのかを知ること・・・それが私の人生であり、目標なのかもしれません。
よって、この世の成功だとかは究極はどうでも良く、私の目はいつだってイエス様に向けていたいと思うのです。それが強いていうならば目標でしょうか。決意でもあります。人生をかけて神様を知ること、これ以上に深い喜びを私は知りません。



