「自己実現」とクリスチャン――目標を持つことは無意味なのか?

    現代社会では「自己実現」が一つの価値観として広く支持されています。夢を叶えたい、成功したい、自由に生きたいと。しかし、神様に信仰を持つクリスチャンはそういった自己実現から離れていく人も多いです。私自身、一時期はそうでした。人生の計画は神様が知っていて、私はもう何も計画しなくていいと思っていました。このように、自己実現は無意味なのでしょうか?聖書的な視点から、今一度この自己実現を再定義して考えてみたいと思います。


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    世の中がいう「自己実現」とは?

    現代の自己実現とは、多くの場合こうです:

    • 自分の夢を叶える
    • 他人よりも優れていたい
    • 成功し、評価されたい
    • 自由に、豊かに生きたい

    そこでは、「自分が主役」であり、「目的」も「栄光」も自分自身に帰されるのが特徴です。いわゆる、「成功者」ともいわれる多くの人が憧れる状態を示しているともいえます。

    しかし、聖書ではそれを目指そうなどとは言及しておりません。それでは、どんなことを目標に、どんな目的をもって私たちクリスチャンは生きればいいのでしょうか。この記事の筆者である私自身、昔から成功に対して強い憧れがあり、血気盛んなところがある人間にとっては、人生の意味や目標は強く持ちたいのが本音です。


    聖書が語る人間の目的とは?

    自己実現 聖書 目標

    私たちは神の作品であって、神が前もって備えてくださった良いわざに歩むために造られたのです。

    新約聖書 エペソ 2:10

    聖書によると、私たちの人生には神様によって設計された「目的」があると書かれています。それは、自分の願望を満たすことではなく、神様が用意された道を歩むことこそが人生の目的とも言えるかもしれません。「自己実現」とは、神様が造られた自分を“実現”することなのです。

    とはいえ、これで「そうか!」とわかる人はあまりいないかと思います。みんな、人生に迷っています。どこが道なのか、わからずに手探りで生きていますから。指針がないわけです。


    目的の見つけ方

    先ほど、神様が自分の道を用意してくれているとは言いましたが、目標を持つなというわけではありません。この違いはわかりますか?ここを履き違えると、白黒はっきりしないと気が済まないような極端な思考になりかねないのでご注意くださいね。

    目的を探すことはいいことです。なぜなら、その心もまた、人間の自由意志であり、神様は自由意志を人間に与えたので、祝福されるべき動機でもあるからです。

    目的には種類がある

    神様に喜ばれる目的を考えていくと良いでしょう。世の中ベースの目的だと、自分本位になります。たとえば、お金持ちになりたい、有名になりたいなど。神様ベースの目的で考えると、次のような目的が挙げられます。そして、他にももっとたくさんあるでしょう。それこそ、人それぞれ個性があるように、その数だけ。

    • 神様が自分をどう造られたのか知りたい
    • 与えられた賜物を主に仕えるために用いたい
    • この人生を通して神様の栄光が現れるように生きたい

    これらは自己中心の夢ではなく、「神様中心で生きたい」という目的であり、栄光を神様に帰す祈りそのものでもあります。


    神様を目的にして、何の徳があるのか?

    正直、こう思った方もいるかと思います。「生まれてきたからには何か成し遂げたいよ。神様を目的にした途端、それが一体何になるというんだ」と。これは不敬にも昔の私でした。これに対する答えですが、結論からいいますと、神様以外では満たされないのが人間です。私たちの主イエス様はこう語りました。

    「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだから。」(マタイ5:3)
    「義に飢え渇く者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」(マタイ5:6)

    これは「世の価値では満たされない」と気づいた魂の姿を教えてくれているようにも思います。悟りであり、霊的目覚めともいえるでしょう。神様の前に「自分には何もない」とへりくだった者にこそ、天の御国は開かれるのです。そして、目的も自然と見つかる、いえ、導かれるのかもしれません。


    この世ではなく、神の御心を基準に

    「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12:2)
    「あなたがたの国籍は天にあります。」(ピリピ3:20)

    流行や成功、他人の評価に振り回されるのではなく、神様が自分に何を願っておられるかを中心に据えること。それこそが、クリスチャンの生き方です。そして、人間として一番幸せで、平安があり、満たされる生き方にもなるのです。

    何かを成し遂げるからすごい人間だとか、価値ある人間なのだ、というのは世の中の考えです。人間の考え方。神様はそんなふうには見ておりません。なぜなら、神様はすでに一人ひとりを愛の中で設計され、誕生させたのですから。そんな奇しくも特別な人間に対して、行為で価値を判断などしておりません。


    小さくてもいい。光となる人生

    あなたがたは世の光です…人々があなたがたの良い行いを見て、天の父をあがめるようになるためです。

    新約聖書 マタイ5:14–16

    大きなことを成し遂げなくても、静かで誠実な信仰生活を送るだけでも、どんな人生であれど、神様を信頼して生き抜くことこそが主の光を放つ生き方です。謙遜・正直・優しさ・誠実――それらは地味でも、神の栄光を表す力があります。


    イエス様の招きはシンプル

    わたしについて来なさい。そうすれば、あなたを人間をとる漁師にしてあげよう。

    新約聖書 マタイ4:19

    イエス様は「あなたは完璧になりなさい」とは言っていません。ただこう招かれています。「ついてきなさい」――それがすべての始まりです。


    まとめ

    クリスチャンにとって「自己実現」とは、神様の作品として、神様の目的に生きること。それは自分の願望を満たすためではなく、神様のご計画が自分の人生に現れることを願い、歩むことです。堅苦しい言い方になりましたが、つまりは、神様を第一に自分らしく生きることです。誰になろうとしなくていいし、無理に成し遂げようと世の中の成功を追う必要もないのです。神様を見つめて生きるだけでいいのですそれこそが、自分という存在が最も深く満たされる道ともいえます。

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