「アモルを売る女」を考察する

    絵画とは面白いものです。どんなメッセージが込められているのか、読み手の考察次第でいくらでも膨らみます。この知的想像はなんと楽しいことか。そんな私は「アモルを売る女」という絵に惹かれています。この記事では、単なる美術解説でも、教養記事でもない、問いと感覚を核にした考察記事としてお届けしたいと思います。ぜひお楽しみください!


    アモルを売る女 考察
    作者 ジョゼフ=マリー・ヴィアン

    ――古代ローマが描いた「愛の不在」と、人間の限界について

    INDEX

    はじめに

    作品の元になったポンペイにある壁画

    実は、上記の絵画はオリジナルではありません。その原典は、古代ローマ時代のポンペイから見つかったフレスコ画です。いわゆる、壁画ですね。この壁画をもとに、各時代の美術家たちがオマージュした作品が数多く残っており・・・そして、現代を生きる私にも届いています。なんと神秘的でしょうか。2000年くらい前から(?)現代にかけて、人間の感覚は変わらず同じだったとも言えます。それもそのはず、この作品のテーマは「愛」だからです。難解かつ深淵なテーマです。

    美しい!しかし、なぜこんなに虚しいのか

    「アモルを売る女」は、一見すると優雅で、知的で、どこか洗練された女性たちの静かな場面を切り取った作品に見えます(男性がいないのも面白い)。しかし、見れば見るほど、胸の奥に引っかかるものがありませんか?

    愛の神アモル(キューピッド)ではないでしょうか。まるで、商品かのように物のように差し出され、それを吟味する人間たちがいる。そういう絵に見えますよね。ある人は、「愛の安売りだ」とか「人○売買なのか」と思ったり・・・。確かに、そういう見え方もできなくはないと思います。これは私の勝手なる意見ですが、フレスコ画(原典)はもっと深い意味が込められていると思います。しかし、その後の時代でオマージュされてきた作品には、作者の意図が組み込まれており、原典とは違う意味合いを含んでいるようにも見えるのです。

    まぁ、ここらへんは文字にしただけでは伝わりにくいので、まずは実際に見てみましょう!↓

    フュスリ版「キューピッド売り」

    アモルを売る女 考察
    作者 ヨハン・ハインリヒ・フュスリ

    古代ローマの「アモルを売る女」」への明確なオマージュです。しかし、フュスリは「美術的引用」をしたのではありません。彼はこの主題を使って、古代とは全く別の問いを投げかけているのは明白です。

    キューピットが愛の象徴なら、「祝福」のはずです。しかし、この絵画を見ると「呪い」かのように見えます。キューピットそのものが、というよりも、このやり取りそのものが呪いかのように。受け取りたくはありませんよね。

    そもそも、フュスリという画家は他の作品もどこか薄暗いものを感じます。しかし、それは単なるホラーというよりも、人間の無意識をテーマにしているような、どこか哲学的な意味合いがあるように思えるのです。また、フランス革命が起きる前の作品というのもあり、啓蒙思想の強い時代だったというのも関係してくるでしょう。

    アモルを差し出す人

    アモルを売る女 考察
    作者 ジョゼフ=マリー・ヴィアン

    話は少し脱線しましたが、ここでキーポイントな人物は「キューピットを差し出す人」にあると思いませんか? 私たちはついついキューピットそのものに「むむむっ!?」と注目しがちですが。

    しかもその場には、男女の恋愛劇も、神聖な儀式も描かれていません。立場の違う女性が、愛の擬人化としてキューピットを差し出しているのです。「いかがですか?」と売っているように見えますよね。現実では見ることのない光景ですし、愛というテーマが一言では語れない・・・ゆえに難解な絵画ですよね。

    美しい。けれど、どこか空虚。そして、恐ろしいほど人間的。この絵は何を描こうとしたのか。そして、古代ローマの人々は「愛」をどう見ていたのか。時代背景は色々とあったにしても、愛は愛です。そこに変わりはありません。もう少し探っていきましょう。


    原典|ポンペイのフレスコ画

    冒頭でもお伝えした通り、古代ローマのポンペイで発見されたフレスコ画。これは、制作年代はおおよそ紀元1世紀(ローマ帝政初期)と考えられています。そうなると、アウグストゥスによるパクス・ロマーナ(ローマの平和)が実現されていくといった、秩序と安定を手に入れた直後(その前は血なまぐさい内戦でした)ということですよね。

    そもそも、このフレスコ画の発見場所は神殿ではなく、私的空間(邸宅の壁)に描かれていた可能性が高いとされています。つまり、この絵は信仰対象ではなく、鑑賞され、思索され、会話の種になるための絵とも言えるのです。パクス・ロマーナな時代、人々は、とりわけ貴族は優雅に過ごしていたことかもしれません。

    愛と哲学

    じゃあ、「アモルを売る女」は哲学で読み解くべき? そう思った方もいるかもしれません。私もそうです。ただ、哲学そのものはすでに生活の教養として染み込んでいたので、流行りとして描かれたわけでもありません。ちなみに、哲学はこの古代ローマ帝国よりもさらに500年くらい昔から、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった人物によって提唱されてきました。確かに、古代ローマは古代ギリシャに影響を受けているので、つながりはあるでしょう。


    登場人物の整理

    アモルを売る女 考察
    ポンペイにある壁画

    アモル(キューピッド)

    アモルを売る女 考察
    • 愛の神(ギリシャ神話)
    • 翼を持つ
    • 複数描かれ、雑然と扱われている
    • 幼児の姿(無垢の象徴)

    これは「全能の神」ではありません。むしろ、人間の欲望の象徴としての愛です。

    ちなみに、この記事を書く私はクリスチャンです。イエス・キリストを唯一の神として信仰しているため、このキューピットはあくまで「愛の擬人化」として、絵画の中だけで面白く見ているに過ぎません。形なきものの概念をよく表しているなぁと、人間の想像力に感動です。

    アモルを差し出す女性

    アモルを売る女 考察

    この女性はヘタイラ的存在と考えるのが自然です。ちなみにヘタイラとは、古代ギリシャ・ローマの高級遊女・娼婦を指す言葉です。

    • 教養があり
    • 社交に長け
    • 男性だけでなく、女性とも知的に交わる
    • 「愛」を媒介にして生きる存在

    結構すごい要素を持っていますよね。そのようなヘタイラたちは、肉体だけでなく、知的でもあった人物。愛の演出・供給者として表しています。ただし、その愛がどんな愛を指すのかは一旦置いといて・・・。

    裕福そうな女性(マトローナ的存在)

    アモルを売る女 考察

    一方、アモルを吟味する側の女性は、

    • 身なりがよく
    • 落ち着いており
    • 「選ぶ立場」にある

    これはローマ市民社会における正妻(マトローナ)像に近いです。彼女はすでに「制度的な愛(結婚)」の中にいます。そして、アモルを買うかどうかを考えています。これをどう読み解くかも、また深淵ですね・・・。

    背後の女性

    アモルを売る女 考察

    従者でしょうか。もしかすると、友人かもしれません。マトローナに何やら助言をしているようにも見えますね。


    なぜ男女が描かれていないのか

    アモルを売る女 考察

    ここが、この絵の最大の核心です。もしこれが恋愛の絵なら、男性が必要なはず。しかし、男性はいません。何故でしょうか?

    初代ローマ皇帝アウグストゥス(紀元前27年〜紀元14年)は、ローマの長年の内乱を終わらせ、帝政ローマを確立させた人物でした。彼は単に戦争を終わらせただけでなく、社会秩序を安定させ、ローマ市民のモラルを回復させることを国家政策の柱にしました。その中心が「結婚・家族・出生」に関する立法です。

    この法律では、一定年齢の男女に婚姻を促し、独身や子どものいない夫婦に罰則を課した。結婚しなかったり、子どもを持たなかったりすることに対して、相続を受けられないなどの制限を設けました。上流階級においては、特に婚姻と出産を奨励したという法律内容です。これは、ローマ社会で「結婚=制度」そして「子を産むこと=国家の繁栄」という価値観を法によって強制的に後押ししたものです。

    そのため、ローマにおいて「愛」は制度の外側にあったからです。結婚と愛は別でした、ということです。


    古代ローマの結婚と愛

    古代ローマ社会において、結婚とは現代と通ずるものもありながら、やはりどこか違います。

    • 家系維持
    • 財産管理
    • 社会的安定

    のための制度でした。そう、制度なんですね。愛と制度は違います。一方で、

    • 情熱
    • 欲望
    • ときめき

    このような感情は、不安定で、危険で、制御不能なものと見なされていたのです。ですから、古代ローマ人は

    • 妻には「尊敬」を
    • 娼婦や愛人には「欲望」を

    と、愛を分業していたのでしょう。これは一夫多妻というより、一夫一制度+複数の欲望の出口という構造です。まぁ、屁理屈のようにも見えますし、本質は同じようなものですが。

    個人的にはクリスチャンというのもあり、信じられないような気持ちで見ています。ただ、それは当時の人も思っていたかもしれませんよね。だからこそ、この「アモルを売る女」が生まれたのではないでしょうか。


    ローマ人は、愛を恐れていた?

    アウグストゥス どんな人

    ここで重要なのが、古代ローマ人は愛を否定したのではない恐れていたという点です。

    愛は人を狂わせる。
    理性を失わせる。
    社会秩序を壊す。

    だから、愛は神格化されながらも、同時に子どもの姿(未熟・制御不能)として描かれたようにも思えます。ちなみに、他の神々(本当は神と言いたくないのがクリスチャン的ですが)は、成人とした姿で描かれていることが多いです。しかし、この愛の象徴・アモル(キューピット)は幼児です。実は、幼児であることは偶然ではありません。そして、「アモルを売る女」を読み解く上で重大なヒントとなります。


    アモルは神ではなく「人間の性質」

    以上のことから、この絵に宗教臭がない理由は明白です。意外とそういう作品って珍しいかもしれません。この絵画で描かれているアモルは、むしろ崇拝とは逆の・・・それこそ物扱いも同然ですよね。

    • 崇拝されず
    • 救済もせず
    • 祝福も与えない

    つまりこれは、愛という名の、人間の性質そのものを描いた作品なのだと思います。人間の愛は、条件付きですよね。


    ヘタイラとマトローナ|愛を売る者と、買えない者

    ヘタイラは愛を売っていて、マトローナはその愛を買おうか吟味しています。しかし、決定的なのは「愛は、お金では手に入らない」ということ。これは現代でも、昔でも言えることです。目には見えない、そして強制はできない「愛」を、それでも追い求めているからこその作品でもあると思えませんか? ですので、この場面は成立していない取引ともいえるでしょう。まったくもって、すべてが想像上の、現実世界ではありえない場面を描いているのです。

    愛は見つめている

    アモルを売る女 考察
    作者 カルロ・ノッリ

    オマージュ作品ですが、カルロ・ノッリの複製版画(1862)があります。私はこの絵が一番お気に入りです。フレスコ画を一番忠実に描いているのではないでしょうか。

    特に、裕福そうな女性(マトローナ)のそばにいて、じぃっと見つめているアモルが印象的です。この目、個人的にはとてつもなく気になります。「新しい愛(アモル)を買っちゃうの?」「僕はどうなるの?」と、どこか母の愛を信じている無垢な子どものようにも見えるのです。


    キューピッドの扱いが雑な理由

    アモルは複数いて、無造作に置かれていますよね。宝箱ではなく、籠。まるで檻かのように。それは、

    • 愛が大量生産され
    • 価値を失い
    • 消耗品になっている

    ことへの暗喩です。本当はそんなことない、というのは人間心理として理解しています。それは当たり前だと。しかし、人間同士だけで完結する愛だとどうしてもこうなるわけです。それが、人間の愛の限界だとでもいえるのではないでしょうか。


    聖書的視点から見た、この絵の恐ろしさ

    松下幸之助 聖書

    私はクリスチャンです。聖書を読む者にとって、この絵はさらに深く突き刺さります。なぜなら、聖書とは愛の書そのものだからです。愛が何であるかは、聖書全体を通して、文脈として理解していけます。これは一生をかけて理解していくテーマだとすら個人的に思っています。そんな愛を学ぶ者として、「アモルを売る女」は人間の愛という範囲を描かれていると同時に、本物の愛を渇望しているようにも思い馳せてしまいます。しかし、描けないのです。

    さて、聖書の愛(アガペー)は、神様の愛です。

    • 与えるもの
    • 神から来るもの
    • 取引ではない

    しかしここにあるのは、

    • 欲望(エロス)
    • 計算
    • 吟味
    • 値踏み

    神の不在です。人間だけのやりとり。だからこそ人間の目に深く刺さり、虚しいのです。それと同時に、本物の愛は別にあることを本能的に知っているからこそ、「考えさせられる」絵として各時代の人たちも印象に残っていたのでしょう。


    この絵は「渇望」から生まれたのか?

    おそらく、そうでしょう。これは、愛が足りない世界で、愛を理解しようともがいた痕跡のようにも見えるのです。いくら古代ローマ時代が、愛とは制度であったとはいえど・・・。それは人間の決めたルールなだけで、人間そのものはそのように造られていません。愛の神(本物の)、聖書に描かれている主イエス・キリストこそ、それを具現化した唯一の人です。他にも人間的な偉人は数いれど、限界があるのです。

    たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

    新約聖書 コリント人への第一の手紙 13:3-7

    古代ローマ人の多くは、偽りの神々を拝んでいました。偶像礼拝です。それは信仰というよりも、欲望を願うより縋りのものでした。

    • 愛を欲し
    • 愛を恐れ
    • 愛を制度化できず
    • 愛を商品化した

    その限界を、この「アモルを売る女」は静かに暴露しているのでしょう。


    おわりに|これは、私たちの絵でもある

    「アモルを売る女」は、古代ローマの絵でありながら、

    • 現代の恋愛
    • マッチング
    • 条件比較
    • 愛の市場化

    をそのまま映し出しています。だから私たちは、深淵かつ本質的に欲している「愛」に思い馳せるのではないでしょうか。誰だって、本当は心の奥底では感じていることかもしれません。条件ありきではなく、無条件の愛を知りたいと。これは、家族であってもなかなか叶いません。人間同士では限界があるのです。


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