おとといの安息日に、私たちの教会で「バプテスマ式」がありました。実は私、初めて人のバプテスマを見ることができました。そこで涙が溢れて止まりませんでした。心からのお祝いと、信仰生活への門出を考えると、心の奥底から震えてきました。思えば、私もこのように人から祝っていただいたのだなと、ふと半年以上前のことを思い出し、私もここで証しをさせていただきます。
バプテスマって必要なの?
時折、クリスチャンの人でも「バプテスマはしなくてもいい」と言われる方がいます。また、ある人は「バプテスマは受けたくない。でも、聖書は学びたい」というこだわり強い方もいます。結論、私はどちらでもいいと思います。
バプテスマをしたから真のクリスチャンである、というわけでもないからです。ただ、それを通ってきた私から言わせると、バプテスマはお祝いそのものだと思っています。そういう意味では、バプテスマという神様と教会からの恵みを受け取っていただけたらなと思っています。
私にとってのバプテスマとは
「おめでとう」と祝ってくださる喜び
人生でさまざまな人から「おめでとう」と祝っていただける機会って、何だと思いますか? 人生の数だけいろいろあると思いますが、結婚が挙げられると思います。私はまだ結婚をしたことがないのですが、妹が結婚すると聞いた時は本当に嬉しかったです。新しい人生の始まりであり、晴々しく思いました。
31年間の中で最大の喜び
思えば、私の人生では「おめでとう」と言われることは、いろいろありました。何かしらの賞をいただいたり、大学に合格したこと、就職が決まったことなど。しかし、私のこの31年の人生において、私のバプテスマ式は他で比べられないほどの深みを感じました。
これまで仲良くしてくださった方も、あまり交流のなかった方も、初めましての方も、みんなが「おめでとう〜!」と喜び、中には涙してくださる方もいて、たくさんの愛をいただきました。プレゼントまでいただき、帰りは徒歩では帰れず牧師先生の車で送っていただいたほどでした。バプテスマは、私にとって人生の門出です。
私の内の聖霊が歓喜するのを感じる
今回はじめて人のバプテスマを見て、自分が涙をこぼすことに驚きました。正直いいますと、私はその当事者のことをよく知りませんでした。ですから、「いい式だった」くらいで終わるかと思っていました。名前とお顔は知っていましたが、挨拶程度しか関わったことがありませんでした。それでも何故か、とても愛おしく感じたのです。
バプテスマ式では教会員で讃美歌を歌うのですが、この時にボロボロと涙が溢れてしまいました。決定的なトリガーがあったわけではありません。もしかすると、私がバプテスマを受けた時のことを思い出したのかもしれませんが、もっと奥深く、神様の霊を受けた私の最奥が感激していたのがわかりました。
バプテスマは神様と結ばれる式
実をいいますと、私がバプテスマを受けた頃、すぐに教会から離れてしまいました。期間としては半年と少し。私は一時的に神様から離れ、忘れ、世の煌びやかな世界に魅了されていました。それでも、こんな私を引き留めて繋いでいてくださったのは、神様の憐れみと深い愛でした。時折、この聖句を思い出します。
女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。 たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。
旧約聖書 イザヤ書 49:15
あなたは何を以って、人生を歩みますか?
生きるというのは難しい。私はそう感じます。生きるのは簡単だなんて、親元を離れた時から一度たりとも思ったことがありません。それほどまで、私は家族の加護の元で幸せに生きてこれたのだと思います。しかし、これすらも両親のおかげ以上に、神様の采配あってこそなのだと、31歳になって気付かされました。
子は親を選べません。どんな親でも、人間です。完璧な者はいません。誰もいません。そして、自分の境遇は選べません。能力や容姿も選べません。すべてを受け入れ、まっすぐに生きていくがどれほど大変でしょう。私に聖書が与えられ、バプテスマを受けられ、それを神様や教会の皆さんに祝ってもらえたこと、これは人生の宝です。
ということで、先日バプテスマを受けられたあの方も、どうかこの先の信仰生活が素晴らしいものとなりますように。あの方の上に、神様からの溢れるばかりの祝福がありますようにお祈りいたします。