「たまには外で気分転換」と入ったカフェ。ドリンクとフードを頼んだら1700円だった。美味しいけれど…内心「え、ランチでこれは高くない?」とショックを受ける。物価高で節約したい気持ちがある今、それでも決して安くはないカフェへと足が向かう理由とは——?謎の行動を繰り返す32歳女性の私が思考を巡らせて心理の部分まで追求してみました。
カフェランチ、1700円は流石に高すぎる
一般的な外食ランチ平均との比較(約900〜1200円)

結論から言うと、1700円は本当に流石に高いです。とはいっても、最近のカフェランチは、ドリンク付きで1700円超えも決して珍しくありません。ですが、総務省の家計調査によると、一般的な外食ランチの平均価格はおよそ900〜1200円ほど。まぁ、どちらにしても安くはない・・・と庶民の私は思っています。なんなら、カフェランチは「ちょっと贅沢」な部類に入りますね。それでも人気が衰えないのは、味や空間以上の価値を感じている人が多いからかもしれません。他でもない、カフェ利用ばかりする私はそう思います。
※抹茶ラテとラザニア。おいしかった。けれど、これで1700円は・・・次はないですね。
物価高・人件費高騰により価格帯は全国的に上昇中
衣食住、あらゆるものが高騰している現代です。そんな中、ランチ代で1000円を出すのは辛いと思うのは当たり前といっても過言ではないでしょう。ほぼお給料は変わらず、物価が高騰しているのならば、なおのこと。それでも、私はカフェに時々行ってしまいます。この行動は異端でもなく、むしろ入った店内は混み合っているのがデフォルト。カフェに不況という文字は似合わぬほどに、そう感じています。あれれ?カフェって、物価高になっても別枠で受け入れられているのでは?とわりと不思議に思っている今日この頃です。
筆者の実体験:高いと分かっててもカフェに行ってしまう理由
味や量じゃなく「体験」を買っている感覚
言い訳や綺麗事を言っているようだけれど、それでもカフェに行く理由は、体験を買っているとしか思えません。おかしな話ですが、自分の意思で選択してカフェに行ったのに、その行動の理由をいちいち明確化していませんし、できません。なんなら、脳死状態か直感的な思いつきでカフェに行ってますね。気がつけばカフェに入っていた、なくらいに特別枠でも何でもなく、カフェは当たり前な感覚なのです。体験といえども、好奇心旺盛なフレッシュさや刺激を求めているわけではなく、「なんとなく」カフェでカフェする経験をふとしたくなるっていうだけ。特別ではない、日常の一部という体験なのかも?
疲れているからなのかもしれない
自分で考えてみると、疲れたからカフェに行こうと思いつくことがあります。これ、休憩としてではない・・・と思います。身体もそうだけれど、心が疲れているから行きたくなるのです。それって、「一人になりたいから」「少し考えごとをしたいから」「同じ毎日に少しだけ変化を加えたいから」みたいな理由ですね。これ書いてて思ったのですが、特別さも日常さも、どちらも兼ね備えているのがカフェという体験なのかもしれません。どちらにしても、心身疲れているゆえの何かを求める感覚ですね。
「ここで一息つくこと」が、自分にとってのご褒美
これは女性心理かもしれませんが、「自分へのご褒美」という大義名分でふらふらっとカフェ時間を楽しもうとしている気がします。またの名を、「プチ現実逃避」とも言う。落ち着くとか癒されるとかは、私は正直思っていませんね。周りには知らない人ばかり、時折視線を感じることも珍しくない現代、とてもでないけれど癒されません。一息つく場所を求めているとしか思えません。
カフェで心は満たされない。喉はいつまでも乾く。
「渇いている人は飲みなさい」
このブログはクリスチャンな私が運営しています。それゆえ、聖書的な要素を加えてみたいのが本音。先ほどから思考を巡らせている、カフェに行く理由を掘り下げていくと、「私たちは乾いている」としか思えないのです。聖書では神様がこうおっしゃっています。「人は何かを求めて満たそうと日々頑張っている。けれど、その渇きを本当に潤すことができるのは、神様以外いない」ということ。どんなにお金があろうとも、どんなに凄い人と繋がっても、どんなにいい暮らしをしようとも、どんなに成功しようとも、満たされることがない心や魂の渇きが存在するというのです。
渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようにる。
ヨハネによる福音書 7:32−39
これはイエス様が乾いた人へ送った恵みの言葉です。私自身、この言葉に何度救われたでしょう。なぜか満たされない何かは、主イエス様だけが埋めることができるのです。ここに神様と私たち人間の深い繋がりがあります。
「わかっていても手放せない」女性心理を深掘り
カフェ=安心できる“場所”や“自分らしさ”の象徴
カフェでごはんは高い、高すぎる。1000円でお釣りは出ないどころか、足りない。2000円が必要。そんなカフェへと通ってしまうのは、女性心理の性(さが)なのでしょうか・・・?高いと感じながらも、自分へのご褒美として納得することも、日常に小さな非日常を求めていることも、「ここで気持ちを整えてから、また頑張れる」場所になっていることも、人それぞれ。
とはいえ、女性という生き物が一般的には感じやすい心の部分かもしれませんね。安心さや自分らしさといったね。現代はストレスも多く、自分の役割の種類も多く、感覚を重んじる人間にとってはなかなかに苦痛の世界ですから・・・。
高くても行きたいなら「納得できるカフェ選び」をしよう
「何となく行ってしまう」の奥にある心理
自分を知るということ。なぜカフェに行くという選択をしたのか。きっと「カフェ=安心できる“居場所”」という感覚があるからでしょうね。家とも職場とも違う、“誰にも干渉されない空間”を求めているのかもしれません。人間の心はなんと複雑で、奥深いのでしょう。自分でも自分の心はわからないです。
カフェは味ではなく「体験」を買っている場所かもしれない
いわば、コーヒー1杯=時間・空間・感情のセット価格とも言えるでしょう。現状、私はフードも注文してしまうので、コーヒー1杯で収まりませんが(笑)。
【まとめ】結局私たちは「満たされたい」だけなのかもしれない
表面的な“満足”では埋まらない心の穴
カフェばかり行く人は(それ私です)、心に穴がある気がします。・・・なんて言ったら、横暴かしら?自分で自分を見て、実際そう思っています。欲しいのはモノや時間じゃなく、「わかってくれる誰か」だとは思いますが、話す相手がいない。聞いてくれる人もいないですし、誰かと繋がりたい思いもありつつ、でも静かにひとりでいたい矛盾も抱えています。カフェには人が多くいますが、見ず知らずの人と話すこともありません。それが普通ですから。冷めた目で世の中を見てしまう自分にショック。
その“渇き”に気づいた時、はじめて見えてくるもの
カフェに通う自分を否定したいわけではありません。ただ、その奥にある「本当の心の渇き」に目を向けたくなったから、いつまでもダラダラとカフェに無意味に通っているのかもしれません。ふと思いましたが、人間って案外合理的には生きていないのだと思いますね。この記事を読むあなたは、どう思われますか?
ここまでお読みいただきありがとうございました!
