※本記事は、映画「カリギュラ(Caligula)」を実際に鑑賞したうえでのレビュー・考察です。一部過激な描写に触れます。

なぜ今、映画カリギュラを観たのか

個人的にはタイムリーだったのです。その理由の一つに、私はアンティークコインや古代ローマ史、そして聖書研究に強い関心があったからです。特にあのハイブランド・BVLGARIの「モネーテ」シリーズ(アンティークコインのジュエリー)から着目して、ローマ皇帝にただならぬ興味があったのです。そこから「ローマ皇帝とは何だったのか」「権力とは人をどう変えるのか」という問いに行き着きました。
ちょうどそんな関心が高まっていた時期に、映画カリギュラが限定公開されるという話を耳にしまして。そんな「カリギュラ」という映画は、問題作・禁断映画・もはやポルノ映画として語られることが多く、内容よりもスキャンダラスな評判が先行しているようで。しかし私が知りたかったのは、エロやグロのようなゲテモノ興味とは別でした。ローマ皇帝とは何なのかという興味の方が強いのでした。そういう意味では、カリギュラという映画はなかなかに興味深いものでした。
映画カリギュラのあらすじ|最初から最後まで暴君

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前皇帝ティベリウスの酒肉池林
なんとこの映画、観る者を一切慮らないかのように始まります。冒頭から、皇帝ティベリウスの宮殿では裸の男女が泳ぎ、性と権力が混然一体となった空間が描かれます。どの場面でも裸の人は常に存在しているといっても過言ではありません。布もペラペラだし・・・。
皇帝ティベリウスの酒肉池林が映画の序盤で出てきます。本作の主人公・カリギュラはその光景に圧倒されているようにも見えます。とはいえ、このカリギュラは純粋などではなく、それこそ映画の一番最初から実の妹・ドルシラとベッドで乳繰り合っているのですから・・・。もはや、最初から救いようのないアンダーグラウンドな世界が映し出されるわけです。ただ、今思えば、カリギュラと血の繋がった家族はドルシラしかいないので、縋るようなものもあったのかもしれません。
皇帝暗殺
カリギュラは、常に死を恐れていました。正しくは、殺されるという恐れから。そんな緊迫した思いから、皇帝にならなければ未来がないとずっと思っていたのです。そんな矢先、皇帝ティベリウスは病に倒れ・・・皇帝の象徴である指輪をカリギュラは奪いました。しかし、ティベリウスは死んでいたわけではありませんでした。そもそも、カリギュラは嫌われていました。毒も盛るほどに。カリギュラが半ば混乱している中、忠実な側近・親衛隊長のマクロはカリギュラへの忠誠の証として皇帝の首をしめます。
ここまでは割と、ストーリー感があります。しかし、ここから先は、本物の酒肉池林の世界に突入。自分に忠実だったマクロを、人間芝刈り機などと言われる(!?)残酷な道具で宴の余興とばかりに殺すのでした。ここで示されるのは、忠誠すら命を保証しない世界です。
尊厳破壊の始まり
まず、カリギュラは人を自ら剣で殺すことはあまりしません。口先で命令し、人間を家畜以下のように扱います。倫理・尊厳・人格を徹底的に破壊し、ケラケラと笑っているのです。部下の結婚式への乱入で、新郎・新婦を犯す場面もありました。妻を全集の前で拘束させながら公開出産したり。奴隷を用いた人間アートは当たり前でした(アートと呼ぶのもおかしいですが)。
これらは単なる残虐描写ではなく、「人間を人間として扱わない権力」を描写そのものでした。カリギュラは悪魔の所業をここぞとばかりに実行するのです。皇帝とは名ばかりで、人民を導く者としてあってはならない権力乱用の限りを尽くします。
・・・と、まぁ、あらすじはここまでにしておきましょうか。「私は一体何を見せられているんだ?」と思わせられます。まるで幻覚剤を飲んでしまい、おかしな酒肉池林の世界に入り込んでしまったかのようでした。ポルノの部類ではあるけれど、官能的ともまた違った、何か人間ではないものを見てしまった感覚です。どう表現したらいいのかわかりません。
興味のある方は、ぜひ見てみると良いでしょう。決しておすすめできる映画ではないのですが、こんな体験はカリギュラでしかできません。退廃した壊れたローマを見てみたい人は、ぜひご覧ください。人間の無常さ、残酷さを考えさせられます・・・。
史実としてどうなの??

監督までも曲者すぎる
正直、映画カリギュラは、史実に忠実な歴史映画ではないと思っています。カリギュラが暴君であることは有名な話だとは思いますが・・・映画での描写は大いに妄想エンターテイメントの類いでしょう。あんなエンタメがあってたまるか!と憤慨ものでもありますが。
監督ティント・ブラスは、元々アメリカのポルノ雑誌「ペントハウス」に関わっていた人物であり、本作には彼の過激な性的想像力が色濃く反映されているようです。ポルノに対して、ものすごい力の入れようと、ゲテモノを集約させているあたり、経歴を聞いてなんとなく納得です。
事実は小説より奇なり
ティベリスにしろ、カリギュラにしろ、皇帝はこんなにも堕落した存在だったのか?と疑問を感じざるをえません。監督の経歴も聞いて、私は上記のように妄想が肥大化したものだと思っています。ただし、完全な虚構とも言い切れません。
歴史学的には、ティベリウスは晩年カプリ島に引きこもり、残虐で退廃的だったと伝えられています。また、言うまでもなくカリギュラは浪費、神格化、暴政により元老院や近衛兵の恨みを買い、その最後はひどいものでした。誇張はあれど、「権力が人を狂わせた」という本質は、史実と大きく外れてはいないように思います。
アウグストゥスから、なぜこうなったのか

最も謎なのは、初代皇帝アウグストゥスから続く皇帝が、なぜここまで落魄れたのかということ。アウグストゥス→ティベリウス→カリギュラ、の順番ですから。もう、二代目皇帝からアウトじゃん・・・。
アウグストゥスは、一般的には名君と言われています。ローマの内戦を終わらせ、秩序を整え、いわゆる「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」を実現した人物です。戦争という闇はありますが、戦争をもって、形だけでも平和を勝ち取った統治者ともいえます。
あのアウグストゥスから、どうしてこうなったのかと、驚きを隠せません。私の考察ですが、一代でローマの平和をあらかた完成させてしまったこと、皇帝という制度そのものが「神に近い存在」を生み出してしまったこと。このあたりが、人間が人間を絶対的に支配する構造として、狂った形で完成してしまったのではないでしょうか。
もう一つ、クリスチャンとしての私の見解では、偶像礼拝の国は崩壊していってある意味で当然です。偽の神々は、いわば悪霊です。映画でも出てきた、ユピテルやイシスといった偶像も、すべて背後にいるのは悪霊です。これは聖書をよく読んでいないとわからない真実です。聖書以外に書かれていません。悪霊の影響という意味では、ティベリウスやカリギュラが影響を受けたといっても十分うなづけるものだと個人的には思っています。
ローマの平和(パクス・ロマーナ)という嘘

人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
新約聖書 テサロニケ人への第一の手紙 5:3
聖書にはこのような御言葉があります。時代背景的に、皇帝で考えればカリギュラかネロのあたりでしょう。当時のローマは、アウグストゥスの基盤から「ローマの平和」は実現されているように見えました。インフラも整い、人民の生活は安全になりました。国として成り立っていくわけです。しかし、聖書ではそんな時代にこの御言葉が書かれたのでした。
武力による制圧、反抗すれば死、従えば生かされる、これらはローマという絶対的な権力化のお決まり事。本物の平和ではありません。恐怖による秩序です。そして、イエス・キリストが生まれた時代は、まさにアウグストゥスからティベリウスの治世です。一見、平和で安定しているように見えた時代。しかし実態は、重税と支配、そして尊厳の抑圧でした。だからこそ聖書は語ります。
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
新約聖書 ヨハネによる福音書 14:27
ローマの平和(パクス・ロマーナ)と、神の平和(シャローム)は、まったく別物です。
人間の自由は、なぜここまで醜くなるのか
映画カリギュラを観て、私は強い嫌悪感と同時に、劇中に涙が出ました。なぜボロボロ涙が出てきたかわかりません。ドライアイなのかもしれませんが、尊厳が踏みにじられることへの拒否反応だったと思います。
人は、富や権力を手にすると満足できなくなるのでしょうかね・・・。私はそういうのを手にしたことはありませんが、少しわかる気もします。そして、満足はしないと。むしろ、さらなる刺激を求め、次第に他者を支配せずにはいられない(というか、虐待じみた暴力をしたくてたまらない)、命や尊厳を軽んじるようになります。これは古代だけの話ではないのでしょう。現代社会もまた、見えにくい形で人を支配し、鈍感にし、少しずつ尊厳を削っています。ニュースなんて、まともに見ていられません。
結論|だからこそ、神が必要だと感じた

映画カリギュラが描いているのは、単なる暴君の物語ではありません。人間の底なしの悪徳です。どうしたら堕落から救われるのでしょうか。神様なき世界で、人間が神の座に就こうとした末路だと個人的には思っています。
口も聞けない偶像ではなく、ましてや自分自身をまるで神かのように権力を好き勝手に行使するなど、間違っています。現代でもそうです。自己中心的な人が増えているのも、自分を神のように扱っているからです(神という言葉を使わずとも、扱いはもうそれ同様です)。本当の、今も昔も永遠に生きておられる唯一の神様だけが、人を正しく導けることを知らずして、人は堕落していきます。
だからこそ私は、神様のうちにある自由」こそが、本当の安全であり平和なのだと、改めて思わされました。そういう意味では、カリギュラを哀れに思います。富や権力を持つから幸せとは限りません。世界はそんな単純ではないのです。行き過ぎた欲は、もはや手のつけられない悪徳の限りを尽くします。
万人受け映画ではないけれど

映画カリギュラは、決して万人に勧められる作品ではありません。しかし、権力・平和・人間の尊厳について考える材料として、これほど強烈な映画も稀だと思いますので、ご自宅でひっそりとご鑑賞ください・・・(私は劇場で見て、きついなぁと思いました;)。というか、一番まずいのは監督では・・・なんて思ったり。ともかく、色々な意味で衝撃的な映画でした。





