【考察】大洪水の前に存在していた「神の子」とは?

    聖書には不思議なことが書かれています。「神の子」のニュアンス、「ネフィリム」など・・・。「天使」「御使い」いろいろと、既存の解釈では十分な理解が得られない深みが聖書にはあります。霊的な書物ともいわれる聖書だからこそ、読んでいく時に祈りが必要です。私自身、祈り、そして導かれた答えをもとに「神の子」「御使たち」などを解説していきます。

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    ユダの手紙1:6の「御使たち」とは?

    神の子とは 聖書 ユダ
    神の子=天使、だと思っていた時の私の脳内イメージ

    私はあるとき、新約聖書のユダの手紙にて、この一節を読んで立ち止まりました。

    主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。

    新約聖書 ユダの手紙 1:6

    これは一体、いつのことだろう? そもそも、この御使たちとは何者なのだろう? こうした不思議な箇所は、聖書を開けば別のところにも書かれています。ここが私の探究心をそそらせる聖書の面白いところでもあります。

    神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた。

    新約聖書 ペテロの第二の手紙 2:4

    さらにこの後に、洪水の話が続きます。

    また、古い世界をそのままにしておかないで、その不信仰な世界に洪水をきたらせ、ただ、義の宣伝者ノアたち八人の者だけを保護された。

    新約聖書 ペテロの第二の手紙 2:5

    このことから、ユダ1:6 と 2ペテロ2:4 の「罪を犯した御使い」については、大洪水以前の時期であり、その頃に存在していた人物だとわかりますね。

    ただ、この表現に対して不思議に思いませんか?「御使い」と聞くと、個人的には「人間ではない、天の遣い(いわゆる天使)」をイメージさせられます。それもそのはず、聖書のまた別の箇所では「神の子」という表現があります。


    神の子とは? 創世記6章にて

    神の子とは 聖書 ユダ
    ぶっちゃけますと、私は最初こういう↑イメージでした。人間の女性と天使の男性の恋みたいな(笑)

    神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。

    旧約聖書 創世記 6:2

    ここだけ見ると、「神の子」と「人」とで分けられて書いてあるので、神の子は人間ではないという見え方になるかもしれません。しかし、聖書は一節だけではなく、文脈で読み解くのが基本です。もう一度、前後を合わせて読んでいくと、見え方が変わってきます。

    人が地のおもてにふえ始めて、娘たちが彼らに生れた時、 神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。 そこで主は言われた、「わたしの霊はながく人の中にとどまらない。彼は肉にすぎないのだ。しかし、彼の年は百二十年であろう」。

    旧約聖書 創世記 6:1-3

    主は、あくまで人を見ています。このことから、神の子という表現は、とある一定の人間に対して特別に称された言葉であったとも言えるわけです。創世記を初めから読んでいるとわかるのですが、アダムとエバという最初の人間から生まれたカインとセツ、この二人は対照的な生き方をしていきます。カインは神様から離れた生き方を、セツは神様と共に歩む生き方を。このことから、後者のセツの子孫こそが、神の子も同然として、主が認めていたという見え方もできると思うのです。これが、ここでいう「神の子」の私なりの見解です。

    天使(御使い)は娶らない・嫁がない

    ファンタジー的に見てしまうと、人間ではない存在である天使とも考えたくなるのはわかります。私自身、初めてこの箇所を読んだ時はそういう見方をしていました。実際、そういうドラマもありますし・・・何よりもロマンはありますよね。ただし、聖書には天使についてこう書かれています。

    復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。

    新約聖書 マタイによる福音書 22:30

    イエス様がこう仰っています。もう明確ですよね。ですので、「神の子=天使」では説明がつきません。

    御使いはどんな存在なのか

    御使たちはすべて仕える霊であって、救を受け継ぐべき人々に奉仕するため、つかわされたものではないか。

    新約聖書 ヘブル人への手紙 1:14

    神の子と人の娘が性交渉し、ネフィリムが生まれた?

    神の子とは 聖書 ユダ


    上記の時点で、「神の子」とはとある部類の人間であることはわかってきたと思います。ただ、これまた不思議な単語が出てくるのです。それが、「ネフィリム(ネピリム)」という存在。

    そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々であった。

    旧約聖書 創世記 6:4

    まぁ、でも、「人々」と書かれているわけなので、人間ですね。ここで納得できればそれで解決な話なのですが、私は色々と検索をしていく中で、「ネフィリム=巨人」という説を目にしました。こういった解釈が自分の中に入ってしまい、神の子という存在に対して、人ならざるものを感じたのでした。

    ただ、ここできちんとした情報をお話ししておきたいと思います。ネフィリムには、巨人という意味はないのです。

    ネフィリム=堕ちたもの

    そもそも、聖書はなぜ「ネフィリム」という言葉のまま残したのでしょう? このネフィリムという言葉は英語などではなく、ヘブライ語です。

    語源はヘブライ語の動詞 *נָפַל(ナーファル)=「落ちる」

    多くの学者たちは、「ネフィリム」という言葉に対して以下のように解釈しています。

    • 落ちた者たち(the fallen ones)
    • 倒れた者たち(the fallen)
    • 堕落した者たち

    この「落ちる」という意味から、堕天使が落ちてきたという説が生まれましたが、物理的な表現ではなく、「落ちた=道徳的に堕落した強者」という意味にも取れます。

    余談ですが(でも重要です)、強者というのは、神様と共にいる人間なのですから、ある意味では当然な表現にも見て取れます。人そのものは弱くても、神様という絶対的な凄い方がおられるので、その人は強くされるのです。ここらへんの理解は、聖書を信心深く読み、神様と個人的な体験を重ねてきた人にこそわかるものがあると思います。聖書は生きた神様の言葉そのものであり、だからこそ、単なる普通の書物とはわけが違う・・・このあたりの奥義は実体験でしか得られないものがありますね。

    巨人という意味はない

    ヘブライ語には「巨人」を意味する「別の単語」があります。ネフィリムではなく・・・

    • רְפָאִים(レファイム)=巨人・巨大民族
    • גִּבּוֹרִים(ギボリーム)=勇士、強い者

    ネフィリムと「巨人」は同義語ではないというのが重要なポイントです。ただし、後述のギリシア語訳で「巨人」と訳されてしまったため、現代の多くの人がネフィリム=巨人と誤解しているのです。

    ちなみに、ヘブライ語からギリシア語で訳されるとき、ネフィリムは γίγαντες(ギガンテス)=巨人 と訳されました。このギガンテスという言葉は、背が高い人ではなく、「暴力的、強大、神々に逆らう存在(ギリシア神話のギガントマキアからのイメージ)」なのです。ギリシア訳的には、「道徳的に反逆的な者」という意味でギガンテスを使ったのかもしれませんね。ここから、いろいろと拡大解釈されて、ネフィリム=巨人になった可能性があります。


    離反した神の子≒落ちた者≒ネフィリム

    一旦、ここで整理をしましょう。

    • セツ系の人間は、神様と共に生きた「神の子(=クリスチャン同然)」
    • カイン系の人間と交わってしまった「神の子」
    • ネフィリム=落ちた者
    • 落ちた者=離反した人間(かつて神の子同然だった)

    これでわかりやすくなったでしょうか? あくまで書き手の私の脳内解釈です。

    ただ、これで話は解決しておりません。冒頭でも疑問だった、ユダの手紙に出てくる「御使い」についてです。神の子についてはわかったけれど、この御使いとは、一体どういう存在なのでしょうか。

    家系から読み取れる「神の子」

    これは補足ですが、聖書には家系についてズラッと書かれている箇所がありますよね。ひたすらに人物名が書かれており、読み飛ばす人も多いかもしれません。そんな節ですが、だからこそ「神の子」の意味を知ることができます。それが、ルカによる福音書の3章です。

    イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、 それから、さかのぼって、マタテ、レビ、メルキ、ヤンナイ、ヨセフ、 (・・・) エノス、セツ、アダム、そして神にいたる。

    新約聖書 ルカによる福音書 3:23-24,(・・・)38

    神様から生まれた人たち(霊的な意味を含め)、このような人たちを「神の子」と言えるのでしょう。あえてざっくりとした言い方をしておきたいと思いますが、各時代を含めた「真のクリスチャン」のことです。


    天使ではない「御使い」

    神の子とは 聖書 ユダ

    先に結論からいうと、ユダの手紙に出てくる「御使い」は人間を指していると私は解釈しています。もっというと、クリスチャンであり、神の子も同然の人たちのことです。なぜなら、イエス様は私たちクリスチャンに対して「子となる身分」を与えると新約聖書の至る所で語っておられます。これを希望に私たちクリスチャンは今この地上を生きていますよね。そう、神の子なのです。そして、この神の子たちには使命があります。福音宣教です。まだ福音を知らない、神様を知らない人たちに、聖書を通して神様の救いを伝道する使命がありますよね。これを私は「御使い」なのでは?と思ったわけです。


    イエス様が仰った福音宣教命令

    世の終わり 再臨

    神様であられる主イエス様は、弟子でありクリスチャンとも呼べる人々にこう言われました。

    あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

    新約聖書 マタイによる福音書 28:20

    御使いを通した御言葉

    神の子とは 聖書 ユダ

    こういうわけだから、わたしたちは聞かされていることを、いっそう強く心に留めねばならない。そうでないと、おし流されてしまう。 というのは、御使たちをとおして語られた御言が効力を持ち、あらゆる罪過と不従順とに対して正当な報いが加えられたとすれば、 わたしたちは、こんなに尊い救をなおざりにしては、どうして報いをのがれることができようか。この救は、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、

    新約聖書 ヘブル人への手紙 2:1-3

    出ました、御使いたち! もう見えてきましたね。


    神の子(霊的)=福音宣教の御使い

    神の子とは 聖書 ユダ

    この凄さ、重要性は、ユダの手紙を見ればますます実感してくるのが私個人の意見です。どういう意味なのか? まずは、もう一度聖句を読んでみましょう。

    主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。

    新約聖書 ユダの手紙 1:6

    クリスチャンだからといって、もれなく救われるわけではないとも言える・・・そんな警告にも私は読み取れるのです。大いなる日とは、主イエス様の再臨ですよね。この時、永遠の命(神の御国へ)か滅びが審判されます。この聖句で書かれている、かつて洪水前の堕落した神の子たち(クリスチャン)は・・・。

    それと同時に、セカンドチャンス論(こんなこと聖書には書かれていませんが)を思い出しました。


    死人に福音が宣べ伝えられたとは?

    生き方 不器用

    突然ですが、この聖句を見てください。堕落した神の子はどうなってしまうのか?という疑問を大前提に見てほしいのです。

    死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである。

    新約聖書 ペテロの第一の手紙 4:6

    ただ、結論をいえば、堕落した神の子(今の時代、当然ですが死人ですよね)に対しての御言葉ではないでしょう。では、どういう死人なのかというと、

    • ノア以前の信仰を受け継いだ系統(アダム〜ノア以前)
    • 主イエス様を知らずに死んだが、神様を信じていた人々

    ということです。特にイメージしやすいのは、アダムとエバ。彼らは罪のために苦しみ、しかし信仰を抱いていました。だからこそ、子どもであるアベルやセツに信仰が伝わったのです。カインは離れてしまいましたが・・・。こういった人たちは救われないのかというと、主イエス様は忘れてなどおりませんでした。真のクリスチャン・神の子として受け入れたのだと私は推測しております。そのための「死人にさえ福音」だと。ですので、堕落した神の子たちではないです。


    最終的な真相は、天の御国で明らかになる

    神の子とは 聖書 ユダ

    ここまでの一連の流れで注目したいのは、「霊的」な意味ということです。目に見えることだけが真実ではないのです。信仰とはそういうものなのかもしれません。

    私は天使の姿を知りません。実際、ネフィリムの姿も知りません。また、洪水前の世界の文化もわからないです。それでも、聖書を信心深く読むことで見えてくる霊的理解はあります。これもまた信仰の一部なのだと感じています。こういった一つひとつの探究が神様との交わりでもあると思っています。

    「神の子」「御使い」この言葉の特別さを、信仰を持って歩む人間はよくよく理解しておく必要があると感じました。少なくとも、私はこれを自分の使命であると今回の学びで実感いたしました。

    さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

    新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1

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