生きづらい人も大丈夫だよ!不器用な生き方こそ、唯一無二の自分なのだから

    生きるって難しいなと感じる32歳です。まさかこの歳になっても結婚しないとは思っていなかったし、お金もカツカツだとは思いませんでした。かといって、昔から何か計画していたわけでもなく。普通がよくわからないし、むしろ普通というものは不器用とはかけ離れた「成功」「合理的」な生き方に見えます。けれど、できない・・・それも昔から。そんな不器用な生き方を積み重ねてきた私だから言える、それでも生きるためのマインドを記事にしてみました。ぜひ最後まで読んでみてくださいね。

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    一番大事なことを先に言います。

    生き方 不器用

    自分の生き方は、まず自分自身が認めてあげることが大切です。当たり前のようなことだけれど、本当にできていたら、不器用な生き方をしている自分に対して「後悔」「むしゃくしゃする」「悲しい」「やり直したい」などは思わないでしょう。私もかつては、これらを思っては心を痛めてきました。けれど、もう終わり。大事なことを言いますね。不器用な自分を受け入れてあげましょう。

    不器用に悩んでいる人、そういう方は私のように「わりと真面目なタイプ」「実は結構周りを見ている」「幸せな人生を送りたいと切望している」「今のままではダメだと何かぼんやりとした危機感を抱いている」・・・みたいな感じでしょうか。こういう気持ちでいると、自己肯定感も低くなるし、何よりも生きることが辛くなっていきます。

    とはいっても、このような言葉はどこかで耳にしたことがあるでしょうし、「だから何?それで変わるなら人生楽勝だわ」なんて思ったりするでしょう。もう少し、付き合ってください。


    不器用さに気づいた28歳の頃

    私は自分の生き方が「不器用だな」と本格的に自覚したのが28歳の頃でした。人によっては「遅いな」と思うかもしれませんね。自覚という言葉は生ぬるく、むしろ、本気で危機感を覚えたといってもいいでしょう。このままじゃダメだ、と。

    大学生時代に抱えた後悔

    自分の今の生き方がダメだと、ショックを受けたと同時に、過去の出来事が洪水のように一気に思い出すことがたまにあります。私はどうも、大学生時代での後悔が割合として大きいです。たとえば・・・

    • インターンに行っておけばよかった
    • サークルで人間関係を広げればよかった
    • リゾートバイトをやってみたかった
    • この世の中にどんな仕事があるのか調べればよかった
    • 勉強をもっとしておけば専門性の高い仕事に就けたかもしれない

    こうした“もしも”ばかりが浮かんできます。学生バイト一つでも、ただお金を稼ぐだけでなく、もっと経験として選んでいたら違ったかもしれません。こんなふうに、大学生という時期とブランドを理解しておらず、未来を見据えていなかった能天気だった過去の自分に怒りにも近い悲しみが押し寄せてくるのです。


    「経験が乏しいね」と言われた衝撃

    過去に対して後悔したのには、理由があります。そのきっかけは、28歳の頃。当時の職場の先輩からこう言われました。「年齢のわりに経験が乏しいね」と。もう少しオブラートに包んで言われたものの、薄々は自分でも思っていたことなので結構ショックでした。

    その先輩は、人生の勝ち組を具現化したような女性でした。20代の頃は都内で1LDKで一人暮らし(私は1K)。英語もネイティブ、かつ長期休暇にはハワイやシンガポールによく行っていたり、株式投資もしていて何やらお金に詳しかったり。そして、全身からみなぎるデキるオーラと自信がすごかったです。それゆえに、強い憧憬がありました。

    だからこそ、自分自身が本当に情けなく、とにかく悲しみでいっぱいになりました。もう取り戻せない過去の重みを、この時に初めて本気で強く自覚したのでした。

    同年代と比べて感じた劣等感

    先輩の件だけではありません。今の時代って、ネット一つでかつての知り合いの状況がわかりますよね。SNSなんていい例でしょう。確か、25歳頃だったと思います。その頃から周りは結婚ラッシュで、中学生の頃の知り合いが出産していたりと、忘れかけていたかつての人たちの面影を上塗りしていくかの如くの結婚報告の数々。他にも・・・

    • 管理職に就く人もいたり
    • 大きな仕事を任されて充実している人や
    • もちろん結婚や出産など人生の節目を迎える人など

    人として前進している、成熟しつつある過程を見せつけられたように感じました。一方で私はどれも経験していなかったため、この言葉には大きなショックを受けました。人と比べる必要などないものの、気にするなと言われる方が無理なほどに、25歳あたりの自分のことがわかっていなかったのです。それゆえに外部の情報に踊らされてばかりでした。それ以来、「将来を見据えて生きなければ」「もっと稼がなければ」という焦りが徐々に芽生えていったのだと思います。


    32歳になって思うこと

    そして今、32歳。一つ思うのは、29歳と30歳は違うなぁと。なんだか、ピークを少し過ぎたようにも感じます。どんなピークかって、それは自分の焦燥感の様々な要因かつ出来事であったり、周りのイベントの数々であったり。自分の精神が、やっと成人したようにも感じています。また、社会に揉まれて少しは賢く生きられるようになった気もします。

    それでもやっぱり「私は不器用だ」と思うのですが、もう後悔や悲しみはなくなりました。私は私の人生を受け入れるようになったからです。生きづらいと感じたまま生きるのは、それはもう辛いからです。ならば、自分が不器用であれ、なんであれ、もうそれでいいじゃないかと思うようになったのです。

    合理的に生きるって、本当に幸せですか?

    自分では生きることに結構頑張ってきたつもりですが、だからってうまくいくわけではありません。それは人生経験を通して本質的に理解しています。むしろ、不器用ですから。今が楽しければそれでいい、に近い生き方だったのだと、今にして振り返ればわかります。当時は、それすらもわかっていない子供でしたから。

    私と同じ年齢であっても、もっと合理的にうまく立ち回っている人もいます。少なくとも、私の目からは合理的なのです。いいなぁ、と何度思ったことでしょうか。しかし、それでも今なら思います。ただ一方で、合理的に生きることが本当に幸せなのか?と。綺麗な生き方って、幸せなのでしょうか。


    不器用な過去は、唯一無二の財産

    ここで一つ、正直に打ち明けます。私は大学時代、勉強もろくにせず、アニメのコスプレに没頭していました。制作・撮影・編集に3年間を費やしました。これはコスプレそのものが恥ずかしいというのもありますが、親に対して申し訳ない思いもありますし、何よりも自分の貴重な時間をこんなことに費やしてしまったのだという虚しさを実感しているからです。これが20代までの私の心の奥にあった思いでした。

    しかしですね、人生は不思議なものです。32歳にして、その当時のコスプレという趣味が、とてつもなく懐かしくて温かい気持ちにさせるのです。かつての写真を見るだけで、涙が出そうになったこともあります。もう10年前なのだと。ミシンで衣装を作り、ネット上で仲間を募ったり、カメラマンさんと協力して、「やりたいこと」を具現化していたという熱いパッションを思い出させるのです。

    これ、もう32歳の今ではできないし、やる気もないです。そう思うと、決して無駄だとは一概には言えないのかなと思いました。自分のこだわりや、厨二病的な要素、いろいろな自分の「好き」を思い出させてくれる記録は、私の心の財産でもあると気づいたのです。

    無駄に見えた経験こそ価値になる

    社会に出てからは「無駄な時間だった」と思っていましたが、今振り返るとあの経験こそが唯一無二の財産です。不器用な生き方の中にこそ、無駄ではなく、実は宝があったということ。全く意味のないことなんて、人生には何一つないのだとわかったのです。

    ですから、今は無駄だと思っていることでさえも、未来の自分はそうは感じないのでしょう。しかし、人は先を本当に見据えることはできません。そうなると、人は合理的には生きられないのだとも思います。

    不器用こそが自分でした

    ところで、人は誰しもが自分自身に対して疑問を抱くことがあると思います。私でいうならば、このようなこと。

    • 「何のために生まれてきたのか」
    • 「自分は何者なのか」
    • 「自分の好きなものは何なのか」

    こうした問いに向き合うとき、過去の“不器用な経験”が答えの鍵になっていると感じるのです。これって、凄いと思いませんか?自分という、一人として同じ人などいない生き物だからこそ、合理的に生きるのはむしろおかしいし、不器用になって当然。そして、それが自分という人間だとわかるのですから。


    不器用は唯一無二の証拠

    人間は唯一無二です。何をもってそう言えるのか。それは、30歳の時に「聖書」を読んだことがきっかけでした。それまでは、自分の役目がわかりませんでした。むしろ、社会に適応できない不器用者だと思って、自分を情けなく思っていましたから。

    けれども、振り返れば不器用な過去は宝でした。否定せず、別の視点で肯定的に棚卸ししていくことで、不器用な生き方は「不器用」ではなくなります。むしろそれは「唯一無二」の生き方へと変わっていきます。だから私はこれからも、不器用である自分を認め続けていきたいと思っています。

    あなたは、わたしの内臓を造り 母の胎内にわたしを組み立ててくださった。 わたしはあなたに感謝をささげる。 わたしは恐ろしい力によって 驚くべきものに造り上げられている。 御業がどんなに驚くべきものか わたしの魂はよく知っている。 秘められたところでわたしは造られ 深い地の底で織りなされた。 あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。 胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。 わたしの日々はあなたの書にすべて記されている まだその一日も造られないうちから。 あなたの御計らいは わたしにとっていかに貴いことか。 神よ、いかにそれは数多いことか。 数えようとしても、砂の粒より多く その果てを極めたと思っても わたしはなお、あなたの中にいる。

    旧約聖書 詩編 139:13-18
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