世界中、至る所に龍(ドラゴン)が存在します。実際には誰も見たことがないのに、ここまで浸透しているのは何故なのか、私はずっと疑問でした。見たこともない、生きているのかもわからない、空想上の生き物をここまで高く上げる背景ーーーここに聖書は欠かせません。かつてはスピリチュアル(ニューエイジ)を極めていた私が、イエス様を信じるクリスチャンへと変えられた時、龍の正体がわかりました。これは警告の記事です。目を覚ましていただきたいという思いから、誰かのためになればと書かせていただきました。
龍は“神”か?それとも“悪魔”か?


結論、神なわけがありません。悪魔かどうかは後述するとして(一言で括れないため)、ただの被造物です。それ以上でも、それ以下でもありません。ただの被造物なのに、それでも世界中のあらゆる文化に紛れているのがこの存在です。仮に生き物だとしても、ほとんどの国で存在する生き物なんて早々いませんよね。しかも、古代から世界各地で龍という存在がいたかのように語り継がれているのですから・・・。個人的には、不気味さ、不自然さすら感じます。
日常に紛れ込んでいる龍
そんな正体不明の龍──ある意味では神秘的な存在です。日本や中国では神として祀られ、西洋圏では悪の象徴とされてきました。現代でも、映画や神話、宗教、スピリチュアルな世界観の中でも“龍”は特別な存在感を放っていますよね。美しさ、かっこよさ、偉大さなどを感じているのでしょうか。私もかつてはそう思ったこともあります。しかし、正体を知ってしまった今となっては、冷めた目で見ています。

パッと思いつくのは、日本橋の麒麟像。箱根の九頭竜神社。映画ホビットのスマウグなど。
聖書における龍は、こういった世界中が思い描く力強いイメージとは大きく異なります。クリスチャンである私にとって、“龍”はサタンの象徴であり、決して好意的な存在ではありません。むしろ、悪。嫌悪の対象でもあります。人を惑わす罠を常に用意しているからです。神様から離れさせて、破滅の道へと誘うこの存在が、私はとにかく不気味で仕方がありません。
面白いことに、東洋と西洋とでは龍(ドラゴン)のイメージは若干違うようにも思えます。それを今からお伝えしていきますね。
龍は神様?──日本や中国で愛される存在




龍とスピリチュアル
日本や中国では、龍は非常に人気があります。とくにスピリチュアル系の思想(ニューエイジ思想)では「龍神様」と呼ばれ、守護や導きの存在とされることもしばしば。熱心にお参りする人や、チャネリングや祈りの対象として崇めている人も結構います。実際、神奈川の箱根にある九頭龍神社など、龍を祀る神社も存在します。
日本各地でも拝まれている
また、東京・日本橋の麒麟像は、西洋と東洋の龍が融合したような存在。他、京都の龍安寺には雲龍図と呼ばれる厳かな絵があり、その姿に圧倒される人も多いでしょう。私も昔見に行きましたが、確かにすごい迫力でした。
武道の道でも龍はいる


それだけではなく、武道や禅の世界に入っていくと、自然と“龍”という概念に触れる場面が増えてきます。身体の動きやマインドなど、円から龍へと行き着くなど、何か超越した存在として誘導させられる道が存在しているようにも思えます。ここらへんは上手く言語化できず申し訳ありません。何か知っている人がいれば教えていただきたいくらいです。ともかく、それほどまでに、龍は「力」「神秘」「超越」の象徴とされてきました。いえ、現代もリアルに続いています。
西洋におけるドラゴン──悪しき存在
一方で、英語で“dragon(ドラゴン)”と呼ばれる存在は、悪そのものとして描かれています。パッと思いつくのは映画ですね。映画『レッド・ドラゴン(羊たちの沈黙のレクター博士の前日譚)』では、実際にウィリアム・ブレイクの絵画『The Great Red Dragon』が出てきます。この存在が人に乗り移ったかのような精神的病で殺人を犯していくのです。
また、映画『ホビット』に登場する巨大なスマウグは、欲にまみれた金銀財宝の番人。しかも、炎を吹いてたちまち全てを滅ぼします。その存在は、まさにサタン的。他には『ナルニア国物語3』では、“レビヤタン”という名で海の怪物が現れます。これは聖書のヨブ記に通ずるものを感じますね。もっとも、この原作の作者はクリスチャンなので、意図しているのでしょう。ともかく、西洋では“龍=敵・悪”という認識が一般的です。
聖書における龍──その正体は“サタン”
ヨハネの黙示録に出てくる龍
世界中の文化を探っていっても、どうも正体がわからないのが正直はな話。それでも、あまりにも有名な存在・・・調べれば調べるほどモヤモヤするのは私だけでしょうか。まぁ、これはクリスチャンになってから明確にわかりました。正体が見えました。タイトル通り、龍はサタンを表しています。
では、聖書に出てくる龍はどんな存在なのでしょうか。最もはっきり語られているのは、ヨハネの黙示録12章です。黙示録は聖書をある程度読み込んでいないと、理解が難しいところも多々ございます。ですが、それでも一旦読んでみていただきたいのです。これは余談ですが、小学生のクリスチャンの男の子が「黙示録が一番面白い」と言っていたのを聞いたことがあります。
また、もう一つのしるしが天に現れた。見よ、火のように赤い大きな竜である。これには七つの頭と十本の角があって、その頭に七つの冠をかぶっていた。 竜の尾は、天の星の三分の一を掃き寄せて、地上に投げつけた。そして、竜は子を産もうとしている女の前に立ちはだかり、産んだら、その子を食べてしまおうとしていた。 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖ですべての国民を治めることになっていた。子は神のもとへ、その玉座へ引き上げられた。 女は荒れ野へ逃げ込んだ。そこには、この女が千二百六十日の間養われるように、神の用意された場所があった。
新約聖書 ヨハネの黙示録 12:3〜9
さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、 勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。 この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた。
創世記に出てきた龍ーーー年を経た蛇




この記述にある通り、聖書において龍は“サタン”そのもの、もしくはサタンの象徴とされています。
さらに、同じ章では「年を経た蛇」とも呼ばれており、創世記に登場するエデンの園の蛇と繋がっています。
ちなみに、創世記におけるあの蛇は、今のように地を這う姿ではなかったと考えられています。ある古代エジプトの伝承や考古学的な壁画には、翼のある蛇の姿が描かれ、神のように崇められていたことも。きっと美しい見た目をしていたのでしょう。目を惹く魅了される姿だったからこそ、エバは耳を傾けてしまったのではないでしょうか。エバはきっと、知恵の実そのものに対してだけで立ち止まったわけではないと思います。エバをそそのかした存在そのものも魅力的に映ったからでしょう。これが龍の原型だったのかもしれません。
ヨブ記に出てくるレビヤタンという龍
旧約聖書のヨブ記41章には「レビヤタン」という巨大な海の怪物が登場します。この存在はまさにドラゴン的で、火を吹き、力強く、誰も手出しできない異常な力をもった存在として描かれています。レビヤタンとは一体どんな生き物なのか・・・なんと、神様ご自身がヨブに語り聞かせているシーンがございます。それが以下の通りです。
彼がくしゃみをすれば、両眼は曙のまばたきのように、光を放ち始める。口からは火炎が噴き出し火の粉が飛び散る。煮えたぎる鍋の勢いで鼻からは煙が吹き出る。喉は燃える炭火口からは炎が吹き出る。首には猛威が宿り顔には威嚇がみなぎっている。筋肉は幾重にも重なり合いしっかり彼を包んでびくともしない。心臓は石のように硬く石臼のように硬い。彼が立ち上がれば神々もおののき取り乱して、逃げ惑う。剣も槍も、矢も投げ槍も彼を突き刺すことはできない。鉄の武器も麦藁となり青銅も腐った木となる。弓を射ても彼を追うことはできず石投げ紐の石ももみ殻に変わる。彼はこん棒を藁と見なし投げ槍のうなりを笑う。彼の腹は鋭い陶器の破片を並べたよう。打穀機のように土の塊を砕き散らす。彼は深い淵を煮えたぎる鍋のように沸き上がらせ海をるつぼにする。彼の進んだ跡には光が輝き深淵は白髪をなびかせる。この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。驕り高ぶるものすべてを見下し誇り高い獣すべての上に君臨している。
旧約聖書 ヨブ記 41:10〜26


個人的に、ここを読むとワクワクします。知的好奇心が湧き立てられるといった感じでしょうか。見てみたいと思いました。しかし現在、レビヤタンはこの世に存在していません。
全ての生き物は神様の作品です。レビヤタンも、神様は原初の時代には自らに仕える被造物として創造されたのでしょう。今はいないので、神様によって滅ぼされたのだと思います。人間でも、何者であっても、こんなにも凄まじい生き物は敵なしですよ。。神様以外にいらっしゃらないでしょう。詳細はわかりませんが、龍に通ずるものがあれば、何か理解が進みそうだとは思いませんか?
サタンもまた被造物であり、自由意志があるがり、叛逆の道を選んだことで滅びが決まっています。(聖書全体を通して明確)。サタンという強大な敵を象徴するのがレビヤタンとも言っていいかもしれません。人間では太刀打ちできませんが、神様なら可能なのです。私たち人間は、神様により頼むべきだと改めて感じざるをえません。
好奇心が人を殺す?──龍が語りかけてくる理由
“龍”という存在、誰も見たことがないのに、世界中の文化や宗教、思想に深く根付いていますね。それも、「神」「守り神」「知恵」「力」「恐怖」など、強烈な印象をもって語られています。…これは普通のことではないと、私は思っています。目に見えないのに、なぜここまで信仰されているのか?しかも像をあちこちつくって。犬や猫といった身近な生き物以上に根付いています。これって、人々の無意識に“龍”が植えつけられているようにも感じるのです。
それはきっと、サタンが意図的に人々を惑わし、崇めさせようとしているから。龍は空想上のものではなく、霊的な戦いの中にある偶像なのだと思います。神様ではなく俺(サタン)を拝め、みたいな感じでしょうか。もっと思考力をもって、そして神様を知って、私たち人間は霊的に防衛していく必要があると思います。神様に祈ってください、もっと頼ってください、信じてください。この世は罠がたくさん敷かれているのです。
最後に──龍ではなく、神様に目を向けて
私はクリスチャンとして、龍という存在が嫌いです。それはただの“嫌悪”ではなく、背後にある“サタンの働き”を感じるからです。ただの被造物として(レビヤタン)実際に目にしてみたい好奇心はありますが、言ってもその程度ですね。間違っても拝む対象ではありません。私が目に留めるのは神様のみ。
多くの人が龍を霊的に良いものだと思い込んでいます。現代だけではなく、それこそ古代からずっとずーっと続いています。けれども、それは偶像崇拝であり、サタンとの霊的な接触でもあります。あなたがもし、龍に惹かれる感覚があるなら、一度立ち止まって考えてほしいのです。その力は本当に「神」から来ているのでしょうか?聖書を読むと、龍という存在がいかに巧妙に人を惑わすために使われているかがわかります。
本当に大切なのは、龍に導かれることではなく、唯一の神・イエス様に立ち返ること。神の愛を知った時、龍の魅力は“偽りの光”だったと気づくはずです。
【おまけ】アスクレピオスの杖という偽り


おそらく、モチーフ的にはどこかで見かけたことがある人もいるでしょう。モーセが荒野で青銅の蛇を掲げ、人々が信仰をもってそれを見上げたことで救われた、という出来事に由来しています。これは、のちのイエス様の十字架を象徴する出来事でもあるのです。
イエス様の象徴であり預言を意味する


では、なぜ蛇という「悪」の象徴が、信仰の対象として掲げられたのでしょうか?それは、まさにイエス様に通じる深い意味を持っているのです。忘れてはならないことですが、イエス様は、罪人として十字架につけられました。しかし、イエス様ご自身が罪を犯したのではなく、私たちすべての人間の罪を背負ってくださったという意味で。ですから、イエス様が蛇と同等であるはずがありません。神様と被造物は同じではありません。それでも、私たちの救いのために、あえてそのような「呪われた」存在として十字架にかかってくださいました。まさに、私たちの命を救うためなら、どこまでもへりくだってくださったのです。
その青銅の蛇は、イエス様の十字架の前日譚(プロトタイプ)のようなものでした。ところが現代では、この青銅の蛇が医療の象徴として描かれ、どこかオカルト的な意味合いすら帯びています。アスクレピオスが魔術で人を救っただとか、神話的な要素を出したところで滑稽です。蛇のあるところに、サタンの力が働いているのは確かです。聖書を読んでいくと、これは決して軽々しく扱ってよい題材ではないことが分かります。なぜなら、これはのちのイエス様の十字架へとつながる、神様の憐れみと深い愛の象徴だからです。聖書を知れば、この世のあらゆるものの見方が変わります。まるで、イリュージョンが解けます。龍の正体も、何もかも。
ここまでお読みいただきありがとうございました。