私は過去、都市伝説にハマっていました。ロマンを感じていたのです。数々のトンデモ話がある中で、「フラットアース(地球平面説|地球は球体ではない)」はお気に入りです。そして聖書を読んでいくうちに、この説がふと自分の中でリンクしました。一番ハッとしたのは「旧約聖書のヨブ記」なのですが、それに限らず聖書の至るところに、この地球の本当の姿が描かれています。この件で深く考察している海外サイトを見つけたので、私の方でわかりやすくまとめてシェアいたします。
聖書の節がフラットアース(地球平面説)を支持する証拠として挙げられている


詳細は上記の海外サイトにて。非常に論理的です。筆者の独断と偏見ではなく、聖書に書かれていることをそのまんまシェアされております。要約するならば、このような感じです。
地球は太陽より先に創られた(創世記1:1‑19)。
宇宙は完成しており拡大しない(創世記2:1)。
地球の大きさは不明(ヨブ38:4‑5,18/エレミヤ31:37/箴言25:3)。
地球は球体ではなく円盤や円形(イザヤ40:22/箴言8:27/ヨブ38:13‑14)。
地は曲線ではなく直線で測られ、平面である(ヨブ38:4‑5/エゼキエル45:1/ルカ6:17)。
水面や道、経路もまっすぐ(詩篇・サムエル記・ルカなど多数の聖句)。
地震は“揺れ”を引き起こすが、地球自体は動かない(サムエル記・イザヤ・黙示録)。
地球は定められて固定されている存在として語られる(詩篇、歴代誌、イザヤ、ゼカリヤ、ペテロ書)。
これらの節はすべて「地球は平らで動かない」という解釈を裏付ける証拠として提示されており、フラットアース(地球平面説)の聖書的根拠を体系的にまとめています。
私もこれらの情報を踏まえて、より考察を深めて書かせていただきました。ぜひ最後までご覧くださいね。
はじめに:なぜ“地球平面説”が話題なのか

現代では常識となっている「地球は球体」という考え。これに異を唱えた風潮が、私が自覚するに、2020年前後からあった気がします。ちょうどパンデミックが流行った時期で、日本のみならず世界的に自粛を要請されていた時期でした。多くの方が不安の中、そして世の中に疑いを持つようになり、「常識を疑う」こと段々と広まってきたのでしょう。
とはいえ、それはあくまで世間一般の流行りでしかありません。人類歴史6000年をつづられた世界最古の書物・聖書では、地球が平らであることをすでに示唆していたのです。まるで、この20〜21世紀で論議されることを見越していたかのように・・・。
地球創造の順番:太陽より先に地球

何をもって正解にすればいいのか、確かめようのない話は難しいです。しかし、もっとも歴史のある聖書はこう言っています。私たちの住むこの地球は、人間のために造られたものであり、そのすべての創造は6日で終わったと。人間の起源、いえ、地球の起源、いえいえ・・・宇宙の起源そのものを教えてくれています。それらがすべて旧約聖書の創世記1~2章ですべてが書かれています。15分もあれば読めますので、ぜひお読みくださいね。まとめると下記の通りです。
- 1日目:光
- 2日目:大空、水
- 3日目:地、植物
- 4日目:太陽、月、星
- 5日目:鳥、魚
- 6日目:動物、人間

これは私自身が受け取った感覚ですが、まるで人間のためにすべてを完璧に備えた創造の流れのように思います。
宇宙は完全で、拡大し続けるものではない
こうして天と地と、その万象とが完成した。
旧約聖書 創世記 2:1
私は聖書を知らない時、進化論だの創造論だの、どうでもよかったのです。人間が猿から進化しただの、宇宙はある日突然ビッグバンで誕生しただの、はたまた、人間はアヌンナキとかいう宇宙人によって創造されただの、どれもおかしくて、ただのエンタメでした。しかし、聖書を読み、それも一番最初の創世記という章を3ページくらい読めばすべてを理解しました。
人間はどうでもように創造されたのではなく、そしてこの広大な地球ならびに宇宙すらも、人間のために備えた環境の一つであり、それらを決めてすべてを造られた存在がいたということを知ったのです。それこそ、神様です。その神様が聖書に書き記して、すべての人間へと向けて隠すことなく教えてくれました。人間の言葉ではなく、神様の知恵をもって人間の手で書かれたのが聖書です。
地球は動かない? 固定されているという記述
主は地をその基の上にすえられた。
旧約聖書 詩篇 104:5
地はとこしえに動かされることはない。
全地よ、主の前におののけ。
旧約聖書 歴代誌上 16:30
世界は堅くすえられ、動かされることはない。
天を創造された主、
旧約聖書 イザヤ書 45:18
すなわち、神であって地を形づくり、これを造り、
堅く立て、むなしく創らず、人の住むようにこれを形づくられた者は、こう言われる、
「わたしは主である、ほかに神はない。」
このような聖句はまだまだあります(冒頭の海外サイトにて)。ふと思ったのですが、「地球」という呼び方もなんだか不自然に感じてきました。「地」でよくない?・・・球とか言うから、ミスリードが起こりそう。これも何か既得権益者たちの意図したものなのでしょうか。真実は何も与えない、という本物の価値を秘密にしておく何かしらの陰謀など。おっと、これでは都市伝説のような言い方になりますよね。失礼。
ともかく、現代で定義される地球とは、球体で自転していると言われています。しかし、聖書では球体の表現はなく、それどころか「動かされることがない」完成されたただの地表でもあるのです。
そもそも「地球」という言葉って何なの?


私は凝り性なもので、「“地球”という日本語は、いつから辞書に掲載されるようになったの?“地”ではないのですか?」と思いました。結論から言うと、「地球」という言葉が日本語として一般に使われ、辞書に載るようになったのは、明治時代以降のようです。それ以前の日本語には「地球」という言葉は存在しておらず、単に「地(ぢ)」「天下(てんか)」「大地」などと表現されていました。
そもそもの「earth」という英単語ですが、「大地・地面・土(地表としてのearth)」という意味です。聖書の創世記のニュアンスと同じですね。創世記では、球体とは言っておりませんから。あくまで、地です。
現代はもう明治を過ぎましたので、「地球」という単語はオーソドックスです。近代的な宇宙観・世界観を持ち込む形で、さりげなく聖書の文脈に登場してきます。そもそも日本語訳は一番古くても明治なので、日本語訳の聖書から真実を追求するのは限界があります。KJVという英語訳聖書で調べるのがいいかもしれません。
地球の形は「球体」ではなく「円」や「平面」?
主は地を環のようにおおわれる者であって、
旧約聖書 イザヤ書 40:22
その上に住む者は、いなごのようである。
主は天を幕のように延べ、
これを住むべき天幕のように張られる。
「地を環(わ)のようにおおう」とあるため、球体(sphere)ではなく、円盤(circle)や平面の円形のニュアンスで読んだ方がいいかなと思います。実に詩的のように描かれていますが、これこそが真実の姿なのかもしれません。ちなみに英語訳のKJVでも “circle of the earth”です。
さらに・・・
主が天を造られた時、わたしはそこにおり、
旧約聖書 箴言 8:27
主が大海の面に円を描かれた時にも、わたしはあった。
「大海の面に円を描かれた」とは、「水の表面に円(circle)を描いた」とも言えますよね。湾曲していない水面という解釈です。水の表面は球体のようにはなっていませんよね。決して球体を反論処理しようと躍起になっているつもりはありません。ただただ、聖書の表現から見るに、平面上でなければイメージつきませんね・・・。
地は何かに固定されている・・・?


わたしが地の基をすえた時、あなたはどこにいたか。
旧約聖書 ヨブ記 38:4〜6
知っていたなら言え。
あなたはそれが、だれによって定められたかを知っているか。
あるいは、だれがその上に測りなわを引いたかを知っているか。
その基は何の上に据えられたか。
あるいは、だれがその隅の石をすえたか。
ここは不思議です。まるでこの世界は、何かに支えられている“建築的な固定構造”を連想させられます(「地の基」「測り縄」などの表現から)。
ここは少し飛躍した考えであり、私がぜひとも言いたいことなのですが、こういった被造物は必ず誰か製作者がいるはずですよね。そう、宇宙の創造主である神様です。この神様以外に、神様はいません(参照:イザヤ書 45:5〜7)
天は「張られた幕」? ドーム構造の示唆もあり
主は光をまとい、その衣は煙のようにしなやかにし、
旧約聖書 詩篇 104:2
天を幕のように広げられる。
また、国々の四方の四つの隅から、
旧約聖書 イザヤ書 11:12
散らされたイスラエルの子らを集める。
こういった表現はまだまだございます。
「天を幕のように広げる」「天の窓」などは、古代イスラエル人(神の民と約束されていた)の宇宙観で、天は布や幕のように張られた構造物として描かれています。また、「四隅」「柱」は天地や大地を支える物理的な構造として古代のイメージに根ざしています。つまり、当時の人たちでも理解できるように表現されているというわけです。歴史を感じますね。ただ、これらの表現は、現代の科学的宇宙観とは大きく異なります。ただの象徴的・詩的な表現だと捉えるのか・・・それとも、神様の言葉を信じるのか、それは読み手の自由意志に委ねられています。強要はできません。もちろん、私は後者です。
イエス様の時代にも“平地”という言葉が多数
ご紹介する前に・・・普通、わざわざ「平地」という言葉を使いますか?例えば、「立ち上がった」などの表現があれば、平地に立ったと想像が付くと思います。もし足場がぐらつく場なのであれば、それを描写した上で記載するはずです。つまり何が言いたいのかと言うと、平地という言葉は使わなくてもいいのが普通です。しかし、聖書ではわざわざ書かれている箇所があります。私はここに、このフラットアースを裏付ける示唆だと思っています。神様が、わかる人にはわかるように教えてくれているのだと。
イエスは群衆の中から降りて、湖の岸の平地に立たれた。弟子たちも近くにいた。
新約聖書 ルカによる福音書 6:17
イエスは弟子たちと共に海辺の平地に行かれた。
新約聖書 マルコによる福音書 3:7
ペテロがヨッパにいた時、そこで「タビタ」という平地に住む婦人が死んだ。
新約聖書 使徒行伝 9:36
少なくとも聖書の地理描写には、“曲がった地球”を前提としていない表現が上記のように書かれています。これはすごく興味深いなと思います。
聖書は科学と矛盾するのか?


つまり、現代科学では地球は球体です。というよりも、地球という言葉がすでにそう示しています。しかし、その地球という言葉は初めから使用されていたわけではありません。earthは地表などの意味があったのです。意味合いというのはどんどん付け加えられていくものですから、この話に決着はないかもしれません。もっと古い言語・・・ヘブライ語などを調べていくとより理解は深まりそうですが。
ともあれ、聖書か現代科学、どちらが正しいのかという点で見ると、矛盾がしばしば起こるわけです。そこである人は不思議に思うでしょう。「なぜ、哲学書のような聖書こそが真実なのか」と。しかし、これも実は甘い見方です。哲学を超えている、というのが私なりの答え。なぜなら、聖書とは神様が人類に与えた唯一の言葉だからです。科学も哲学も、何もかもが含まれています。もちろん世界の成り立ちや宇宙の成り立ち、人間の起源や人間とは一体どういう存在なのかと。それに、超個人に向けた魂に響くメッセージすらも含んでいます。
宗教とひとくくりにするのは、人間の勝手な判断です。聖書以上に真実味のあるのものを私は知りません。エビデンスだとかの人間が結果を補うためのツールに当てはめるには、規模が大き過ぎます。ともあれ、聖書をどこまで信じるかは個人の自由ですが、私はこのフラットアースについては100%聖書の表現そのままを信じています。自分の魂が、「聖書こそ正しい」と納得しているのです。
【あとがき】なんというか、ロマンですよねぇ
フラットアースだなんだの、真面目に語らせていただきましたが、「それ論争してどうなるのよ?」とふと思いませんか?私はよく思いました。究極は個人の自由意思がどう受け入れるかでしょう。否定したければそれでいいと。別にフラットアースを信じなくても、知らなくても、それで人生は何か劇的に変わるのでしょうか。・・・なんていうと、実は私、変わると思っています。物の見え方がいろいろ変わってきますよ。まぁそれはいいとして、ロマンだなぁと思いますね。こういう探究は楽しいです。これもまた、神様が私たちに与えてくれた、真実を追求していくロマンという楽しみなのでしょう。