教会に行くのをやめた。そして、野良のクリスチャンになった私

    私は以前、安息日には必ず教会に行ってたのですが、もう教会に行くのをやめました。すると、こんなふうに思われることがあります。「信仰を捨てたの?」と。なぜそうなるのでしょうか。教会に行くことと、信仰は繋がっているとも言えます。いかし、行かない人を信仰がなくなったかのように判断するのは違うと思っています。教会がしんどいならば、しんどい思いで行く必要はないと思っています。

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    教会に行かなくなった理由

    教会に行くのをやめた

    以前の私は、毎週のように教会に通っていました。それこそ、右も左もわからなかった求道者の頃はとてもワクワクしていました。聖書のことを教えてもらえる時間は宝物のようでした。そして、心からの決意でバプテスマを受け、気持ち新たに、本当の意味で「新生」を感じていました。

    ですが、このバプテスマを受けてから間もなく、教会の中での「役割」を求められるようになりました。たとえば「受付を担当しませんか?」というお願いがあったりなど。というよりも、まだ返事もしていないのに、すでに担当名簿に名前が書かれていたこともあります。こうした出来事に、次第に違和感を覚えるようになりました。

    「私は神様のためにバプテスマを受けたのに、気づけば教会という団体の一員として働かされている」
    そう感じてしまったのです。今にして思えば、教会とはそういうものでしょう。しかし、私はここに不毛さを感じたのです。何だか、ゆるーい老人クラブのように感じたのです。

    役割だけではありません。過干渉と感じるような人間関係も、私の心を疲れさせていきました。もちろん、すべての教会がそうとは限りませんが。ただ、私が通っていた教会では、そうした空気が少なからずあったのです。だんだんと足が遠のき、ついには教会に行くのをやめました。すると連絡が次々に届き、ますます気持ちが追い込まれてしまいました。

    このような経緯があり、私は「教会に行かない」という選択をしました。これは、日本の教会文化や時代背景とも関係しているのかもしれませんね。

    家庭という教会に属したいと思うようになった

    教会に行かなくなってから、新たな思いが芽生えました。それは、信仰を共有できるパートナーと家庭を築くことです。それが、教会でもあると思ったのです。教会に足を向ける目的はただ一つ、神様を礼拝するため。物理的に教会堂に行くだけではないと思います。神様はこのようなことを言っておられます。

    ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

    新約聖書 マタイによる福音書 18:20

    これ、家庭をもつことでもできるなと思ったのです。かつて通っていた教会では、牧師さんと奥様は毎日共に祈っているとお聞きしました。また、そのような場面を幾度となくお見かけしました。まさにこれだなと思ったのです。これが家庭礼拝かと。二人以上で一緒に祈ると、それは教会になるのだと。

    残念ながら、今の私は独身かつ、共に祈れる人はいません。いつだって一人です。ですので、今はこれが叶わないですね。だからこそ、このような暮らしのできる結婚を目指してみてもいいなと思いました。逆に、神様を信じない人、再臨を待ち望まない人とは、何十年も同じ屋根の下で生きていくことはできないと感じます。信仰とは、私にとって価値観そのものだからです。なぜなら、強制はしたくありませんし、強制などできないからです。信仰を共有できなければ、一緒に人生を歩むことは難しい。だから私は、同じ信仰を持つ人と結婚したいと思っています。

    だからこそ、もし同じ信仰を共有できるなら、それはとても素晴らしいことだと信じています。それが私にとっての結婚観であり、人生観であり、「クリスチャンとしての私なりのやり方」なのだと最近になって強く思うようになりました。

    小さな共同体の方が、私には合っている

    ふと振り返ると、私は昔から大きな集団が苦手でした。かつて勤めた1000人規模の会社では、ひとつの役割にしばられ、自分の裁量がほとんどありませんでした。100人規模の会社も、どこか窮屈に感じてしまいました。すごくシステム化しているのです。作業要員になってしまうことがほとんど。一方で、20人前後の小さな職場では、いろいろなことに関われて、自分の自由がありました。役割が固定されていないからこそ、動きやすく、楽しく感じましたね。

    教会においても、もしかしたら私は「自由な信仰のあり方」を求めていたのかもしれません。大きな組織や人数の多さではなく、システムや雰囲気、空気感が私には合わなかったのだと思います。これは本当に人それぞれだと思います。

    最後に:野良でも、クリスチャン

    今の私は、いわゆる「野良のクリスチャン」。どこにも属していないけれど、神様とつながっています。そりゃ、教会に行けるのであればそれに越したことはないと思います。けれど、合うところがないのですから、心を殺して行くことはないと思います。

    もし、これを読んでいる人で、教会に行かないことに罪悪感を抱いている人はご安心ください。野良の私は確信を持っています。無理矢理、苦しい思いをしてまで教会に行く必要などありませんよ!大切なのは、どこにいるかではなく、誰を見て生きているかだと思うのです。

    私は今も神様を愛しています。それだけで、十分なのだと信じています。天のお父様のおられる天の御国にいくこと、これを胸に地上生活を生きるだけです。教会堂が必要かどうか、というのはまた違う話ですから。

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