あなたには、尊敬している人はいますか? 心の底からそう思える人に出会えると、途端に人生の景色が変わってきます。私にとっては、イエス・キリストです。このお方の憐れみ深い愛を知った時、私は一気にファンになりました。この記事を読めば、きっとあなたの中の固定概念も変わってくるかと思います。
イエス・キリストとは
私の言葉をお伝えする前に、世間一般での認識を確認してみましょう。イエス・キリストといえば「キリスト教の創始者」のように言われています。これ、実は違うのです。イエス・キリストとは、「人の罪を贖うこと、永遠のいのちに至る道を伝えること」を成し遂げた方です。この方はマリアという処女の女性から生まれ、その本当のお姿は創造主である神様です。
イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
新約聖書 マタイによる福音書 1:18
クリスチャンにとっては神様
人の子として生まれ、神の子として天に上げられたのが、イエス・キリストです。旧約聖書の時から、イエス・キリストの誕生はずっと預言されてきました(100を超えると言われています)。それこそ、アダムとエバといった人の始祖が語られる創世記から、神様はすでに予告をしております。このあたりは、深く読み込まないと理解が難しいかもしれません。ざっくりいいますと、罪をもたらした蛇(悪魔、サタン)を砕く約束です。
主なる神は、蛇に向かって言われた。
旧約聖書 創世記 3:14-15
「このようなことをしたお前は
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
クリスチャンにとっては救い主
新約聖書からは、イエス・キリストの生涯が描かれています。彼は罪なきまま十字架刑で死なれ、3日後に死から蘇ります。ここでのポイントは、罪の報酬は死です。しかし、罪のないイエス・キリストは、死を打ち破ります。だから蘇り、罪を帳消しすることができたのです。その罪は誰のものかというと、人の罪です。だから、イエス・キリストは救い主と言われているのです。
罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。
新約聖書 ローマの信徒への手紙 6:23
イエス・キリストと出会える日を待っている
クリスチャンは、イエス・キリストの再臨を待っています。どういうことかといいますと、世の終わりの時に救われる人を救うために、万軍の種・神として天から降りてこられるという約束です。ちなみに、私も信じています。聖書にははっきりと書かれているからです。聖書は神様の言葉であり、嘘はないからです。それどころか、預言はすべて成就しています。
こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。
新約聖書 使徒言行録 1:9-10
以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。
主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
新約聖書 ヨハネの黙示録 22:21-22
キリスト教は人がつくったもの
大前提、私は宗教を否定してはいません。しかし、イエス・キリストは「キリスト教」を作ってはいません。聖書のどこにも書かれていないから。しかし、似たようなニュアンスとしては、「教会」が挙げられます。こういった集まり・組織が、後のキリスト教となったのでしょう。つまり、キリスト教とは人がつくったものです。
キリスト教とは一体何なのか
イエス・キリストご自身がつくった言葉ではないということ。とはいえ、現代にも続くこのキリスト教は、発足した当初から基本は変わっていません。どういうことかといいますと、イエス・キリストや聖書について学んだり祈ったりなどの信仰をする組織です。それが、キリスト教というものでしょう。
ちなみに、この記事を書く私自身も昔は教会に通っていました。教会という建物に集まり、クリスチャンの人々と交流しながら、礼拝や聖書研究をしていました。そこでバプテスマを受けたこともあります。なんといいますか、別段怪しいことはなく、個人的には、サークル感がありました。
イエス・キリストが成し遂げたこと
私は冒頭で、「人の罪を贖うこと、永遠のいのちに至る道を伝えること」を成し遂げた方こそが、イエス・キリストだとお伝えしました。いきなりそのように言われても、「どういうこと!?」と思う方が多いかと思います。順々にお伝えいたしますので、ご安心ください。
このお話の前に、聖書に書いてあることをお伝えします。下記の場面は、イエス様が十字架につけられており、まもなく死なれる悲しき場面です。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
新約聖書 ヨハネによる福音書 19:28-30
聖書に書かれていることを成就するため
聖書には、一番最初の「創世記(旧約聖書)」から、最後の「ヨハネの黙示録(新約聖書)」まで、すべての箇所にイエス・キリストの存在が垣間見えます。創世記の頃から、神様が決めていたのです。人を罪から救うために。
つまり、何が言いたいのか。イエス・キリストは「人の罪を贖うため」というのが全てです。人は生まれた時から、罪を負うものとなってしまいました。そこから救いたいのが、神様の御心であり、憐れみそのものです。
イエス・キリストは私の側にいてくださる
ここまでお話をしたイエス・キリストとは、聖書の中の人物のように見えるかと思います。遠い存在のような神様であり、過去という名の歴史に登場するお方・・・とは限りません!私にとっては、常に側にいてくださる方です。
私にとってのイエス・キリストとは
聖書を開けば、自分に響く言葉が目に飛び込んできます。これはまるで、神様(イエス・キリスト)から直にいただくメッセージでもあります。また、両手を絡めて祈りを捧げる時には、ものすごく側にイエス・キリストを感じています。つまり、私にとってイエス・キリストは最も近しい存在であり、私を見守ってくださる親であり、主なのです。
神々しいイエス・キリストを待ち望む
私たち人間は、いずれは審判を受けます。これは、信じる・信じないの話ではなく、本当に起こることです。聖書に書かれていることは、すべて実現されてきました。未来のことは私たちには見えないけれど、すでに決定しているのです。それが、審判。この時にイエス・キリストは地球へと再臨されます。
白馬の騎手としてのイエス様
さらには、イエス様は万軍の主でもあります。どういうことかといいますと、すべての悪に対する裁きのために、イエス様は天から白馬に乗って現れるからです。これは審判の最後の話です。詳しくは、ヨハネの黙示録19章に書かれています。ここで描かれているイエス様は、読むだけで鳥肌ものです。
そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現れた。それに乗っている方は、「誠実」および「真実」と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。 その目は燃え盛る炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分のほかはだれも知らない名が記されていた。 また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は「神の言葉」と呼ばれた。 そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。 この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、自ら鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の搾り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。 この方の衣と腿のあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていた。
新約聖書 ヨハネの黙示録 19:11-16
【さいごに】イエス・キリストと繋がってみませんか?
私は聖書を通して、こんなにもイエス様のことが好きになりました。私を救ってくださったからです。大きく2回救われています。1回目は、初めて聖書に出会った時です。当時の私はスピリチュアルという名の悪霊の業に首っ丈でした。ここから解放されたのです。2回目は、聖書を読まない半年間が続いたけれど、また立ち戻らせてくださったことです。
いずれも、聖書あってこそ。聖書によって、イエス・キリストと出会えるのです。これを読むあなたにも、ぜひ紙の聖書をお手にとっていただけたら、この上なき幸せです!あなたの元にも、幸せが訪れますように。
↓ ↓ ↓