人生の目的を探し、どう生きたいのかを探していました。

    私は小学生の頃から読書家で勉強熱心でした。そこには幼いながらに、「どう生きたいか(どう在りたいか)」といった真面目な心があったからだと思います。適当・いい加減という言葉が嫌いでした。気がつけば大人になってからも、まだ追い求めていました。人生の目的や、どう生きていこうか、これらに対する決定的なお話をここでお伝えします。

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    人生の目的地はただ一つだった

    勿体ぶらずに、先に結論をいいますね。人生の目的地は、イエス・キリストを知ることです。これはクリスチャンだとか、なんかの宗教だとか、そういった枠の話ではなく、全人類にとっての本来の目的です。なぜ、そう言えるのか? なぜ、そんな昔に生きていた人が今を生きる自分に関係があるのか? 多くの人はここで離脱します。

    世の中で流行っている「自己啓発」というもの

    自己啓発という言葉はご存知ですか? この言葉にはたくさんの意味が込められています。たとえば、自己肯定感、自己重要性、自己認識、夢へのステップ、何とかの習慣、成功法則、願いを叶える方法など。これを述べる私自身、自己啓発を促進する事業に関わって生きてきました。一般人よりも詳しいと自負すらあります。

    しかし、これらをいくら学んでも、人生の目的地には辿り着きません。いえ、人生の目的地が見えないままなのです。

    「自分を捨てよ」とは絶対に書いていない

    自己啓発本が大好きな私は、有名どころは一通り読んできました。なんなら、スピリチュアルな分野も大好きでした。すべてに言えることですが、これらの本には共通した言葉があります。「自分ファースト」みたいな意味合いですね。まずは自分を満たしなさい、自分を愛そう、自己価値を高めようだとか、とにかく「自分、自分、自分」なのです。一方で、聖書には「自分を捨てよ」と書かれています。

    聖書には「自分を捨てよ」と書いてある

    それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

    新約聖書 マルコによる福音書 8:34

    この言葉は、イエス様がはっきりと弟子や群衆へと述べられたものです。この記事では、「自分を捨て」の部分をお話ししていきます。「自分の十字架を背負って」の部分は、また別の記事にて。

    自己主張すればするほど、苦しくなってくる

    自己啓発本は、自己主張本ともいえます。何かで成功したい、認められたい、人気者になりたい、有名になりたい、すごいことを達成したい、これらはすべて自己主張です。主語はいつだって、自分。自分という言葉がいかに多いことか。一見すると、「成長意欲がある、頑張っている、何かに一生懸命だ」と見られるかもしれませんね。

    かつての私はそうでした。頑張っている自分が好きでしたし、大変だけれどやりがいがあって、夢を追っていて、人生に意味をものすごく感じていました。それと同時に、苦しみもありました。自分で建てた夢に、苦しめられるのです。ここに安らぎはありませんでした。

    つまり、心がしんどくなる!

    攻撃型の人間になりかねない

    イエス様は「自分を捨て、自分の十字架を負い、私についてきなさい」とおっしゃいました。「ん?どういうことだろう」そう思われる方もきっと多いでしょう。まるで、苦行の道へといざなうのかと、戸惑いを感じる方もいるでしょう。ちなみに私がそうでした。結論、それは違います。むしろ大きな祝福が待っています。その前にいいますが、自分を捨てられない人は、次第に攻撃型になります。自己主張ばかりする人同士、上手くいくと思いますか? もうわかりますよね。

    何が夢だ

    自己主張が多ければ多いほど、誰かが悲しむことになります。傷つけている場合があるのです。他者との垣根が高くなります。少なくとも、私はそれを経験してきました。これに気づいたのは、30歳になってからでした。人間関係が壊れるきっかけは、いつだって自己主張です。・・・何が夢ですか。夢が虚しく思えました。もっともっと、大切なものがあるはずです。私はこの時、夢なんてもうどうでも良くなりました。私が欲しいのは、別のものだからです。

    それでも自我が騒ぐ時がある

    それにしても、「自我」という言葉はすごいですね。自分と我ですから、なんとまぁ、主張の強い言葉でしょう。そんな自我ですが、私たちは抑えが利かずに暴れそうになることがあります。とにかく自分の意見を言わなくては気が済まない、とにかく持論(正論だと思っている)で相手を説き伏せなくては気が済まない、と。この先に平和はあるでしょうか。

    愚か者は自分の感情をさらけ出す。

    知恵ある人はそれを制し静める。

    旧約聖書 箴言 29:11

    私たちの平和はどこにある?

    結論、イエス・キリストです。私の愛するイエス様なのです。自分をどんどん出していくことが、現代の美徳のようにも言われていますが、その実そこに平和はありません。いかに自制できるかこそ、真の美徳だと思います。自分のことよりも、相手を想う気持ち・行動こそ、平和な関係が築けます。いえ、平和を超えて、これこそが愛なのだと思います。

    愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。 礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

    新約聖書 コリントの信徒への手紙一 13:4-7

    人が幸せを見つける道

    「自分を出さない=空っぽの人」・・・ではありません。無我になりなさい、とはイエス様は仰っていません。自分を捨てよと一言で判断するのではなく、文脈や他の聖書箇所と合わせて意味合いを深めて読んでいく必要があります。

    自分を捨てるというのは、自分の意思で成し得るものです。これができるようになると、神様は必ず他のものを与えてくださいます。出すから、入ってくるのです。私たちの神様は、恵み深いお方です。我が子が幸せであってほしいと願っているお方です。

    この時、自己啓発本などは必要なくなるのです。

    自分を捨てると、とんでもない賜物が入ってくる

    冒頭でお伝えした言葉があります。「人生の目的地は、イエス・キリストを知ることです。」ということ。自分を捨てると、自分の中にイエス・キリストを招くことができます。意味、わかりますか? イエス様は私たちを造られた創造主であり、天地万物すべての被造物の神様です。このお方の霊が、個人的に介入してくださるというのです。

    新しい自分になるために、古いものは捨てなさい。ということです。空いたところには、いくらお金や徳を積んだって手にいれることのできない神様の霊が私という人間の中に入ってくださるのですから。

    これほど幸せに満たされることはありません。欲しいものが手に入っただとか、いいところに住むことや、いい車、素敵なパートナー、豪華な暮らし、たくさんの貯金、これらがあっても満たされないものが、イエス様の元にはあります。お金があるから手に入るものではありません。富んでいるとか、貧しているとか、何の関係もありません。イエス様を知っている人に与えられる喜びです。

    (私はこの真理を誠に手に入れた時、人生で味わったことのない深い感謝と満たされた気持ちでいっぱいになり、今までにない感動を味わいました。すごいのです、言葉では言い難いほどの幸せでした)

    さいごに

    生きるというのは、旅のような気がします。道があり、目指すべきものがあります。私はこれを、クリスチャンになる前30年間、必死になって探してきたのだと思います。いい大学に入りたい、いい会社に入りたい、成功したい、かっこいい人と結婚したい、お金持ちになりたい、だとか、さまざまな欲望をゴールにして生きてきました。時に疲れて、生きる気力すら失ったこともあります。

    どん底も、喜びも、自分の尺度ですが味わってきました。そこから言えることは、優しい心を持ちながら、愛ある生き方ができたら、それが一番いいということ。これは自分だけの努力では限界があります。聖書はそう言っています。だから、イエス様を頼るのです。イエス様を知ることが人生の目的です。

    ましてや、イエス様は私たちを罪と罪の代価である滅びの死から救うために、人間としてお生まれになり、死なれました。私たちが考えるような人間視点のゴールではなく、イエス様に全幅の信頼をおいてみませんか? イエス様はいつだって側にいてくださいます。これこそ、今までにはない生き方であり、そう生きようではありませんか。

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