「ラテマネーは無駄だ」私は、これまで何度もそう書いてきました。実際、過去の記事でも「カフェは高い」「毎日のように通うのは賢くない」「そのお金を別のことに回した方がいい」そんな理性的な正論を、わりと強めの言葉で語っています。それなのに今の私は──ほぼ毎日のように、コンビニでカフェラテを買っているのです。本当は良くない、でも、やめられない。・・・この心理とともに、それでも買う理由を分析してみました。
ラテマネーとは?

そもそも、ラテマネー(Latte Money)という言葉は何を指しているのでしょうか。前提を確認していきましょう。いわゆる、日常的に無意識で使ってしまう少額の支出――特にコーヒーやカフェ代のような習慣化した出費を指す言葉です。語源は、アメリカのファイナンシャルプランナーのデビッド・バックが提唱した考え方と言われています。彼はこう言いました。「毎日のカフェラテ代を投資に回せば、将来大きな資産になる」と。ここから「カフェラテ=将来を奪う無駄遣い」の象徴として使われるようになったのです。
ここで重要なのは、コーヒーそのものやカフェが悪だと言いたいわけではないということ。問題にされるのは、「考えずに(無思考に)」「習慣として」「合計額を把握していない」といった意思決定を放棄したお金の使い方について。これらは依存症なのか、ただの癖なのか。よくよく考えていきたい出費項目であるのは間違いありません。
ラテマネーは数字で見よう

まず、理性の側の話から。数字で見ると、ラテマネーがどれくらいの重さを持つのかがはっきりします。当たり前ですが、わかりやすいです。しかし、向き合うのは少々怖かったりします(個人的には)。なぜなら、それほど感覚的には覚えがありすぎるからです。。
▼衝撃的すぎる!ラテマネーの年間コスト比較
| パターン | 1回あたり | 頻度 | 月額目安 | 年間目安 |
|---|---|---|---|---|
| コンビニカフェラテ | 220円 | 週5回 | 約4,400円 | 約52,800円 |
| カフェ(ドリンクのみ) | 500円 | 週2回 | 約4,000円 | 約48,000円 |
| カフェ(軽食あり) | 1,200円 | 週1回 | 約4,800円 | 約57,600円 |
| カフェ混在(500円×1+1,200円×1/週) | ― | 週2回 | 約6,800円 | 約81,600円 |
※月=4週で計算
- コンビニ中心でも 年5万円超
- カフェが混ざると 年8万円前後
- 頻度次第で 10万円超え
決して誤差では済まない金額だと分かります。一回の出費は僅かであっても、月や年間で考えると無視できない額になっていますよね。そして、もっと頻度が高い・金額が大きいのであれば、桁も変わってくると思います。
それでも、買わずにはいられない理由

では、ここまで数字がはっきりしていても、なぜ私はコーヒー、カフェラテをやめられないのか。自分の意思で決めたことなのに、自分で自分のことがわからない部分でもあります。というよりも、向き合っていないからなんですよね。
ですが私は、ここで合理的な考え方を外して考えてみました。確かに癖になっているのは認めるけれど、それだけではないと気づいたのです。このラテマネーという支出、嗜好品ではないということ。むしろ私にとってコーヒー、カフェラテは
- 朝、仕事モードに入るためのスイッチ
- 気持ちを切り替えるための儀式
- 一日を始める合図
つまり、飲み物というより「切り替え装置」でもありました。そんなものナシに行動したいものですが、どうも日々が絶好調ではないのもありまして。まぁ、それだけ心身の負荷(ストレス)がかかっているという証拠かもしれません。
依存症?それとも癖?

「いやいや、それって依存症なのでは?」と思う方もきっといらっしゃるはず!私も思いました。どんな理由を並べても、頼り切っているのだから、依存症だと。でも依存症なら、
- 問題だと自覚できない
- 金額を把握しない
- 生活を圧迫しても止められない
はずです。これもまた、こじつけでしょうか・・・?とはいえ、私はラテマネーから徐々にでいいので解放されたいと思っています。やはり、なんだかんだで無駄なので。必要だけれど、それ以上に無駄なので。ですので、内心ではズブズブの依存というより、脱却を目指している段階ですね。
無駄な5万円か、必要な5万円か

ラテマネーは年間5万円、あるいは10万円。このお金が浮けば、わりと大金ですよね。旅行に行くこともできますし、本を何十冊も好きに買えます。貯金に回すこともできますし、何かに運用しても良いでしょう。そう考えると、ラテマネーは確かに削れる支出です。でも一方で、この200円がないと朝が立ち上がらない日、この一杯で仕事に向かえる日があるのも事実。
同じ5万円でも、無意識に流れ出ていく消耗と化すのか、それでもそれを分かった上で選ぶ自分の維持費とするのか・・・意味はまったく変わります。理性だけで乗り切れる問題ではないと思いました。ラテマネー、結構根深いですね。
働くようになって、数字の意味が変わった

正直に言うと、仕事をするようになって、数字の見え方が変わりました。200円の重みがあります。これを使わずに日々貯めていくならば、相当にいいお値段になるでしょう。しかし、日々の疲労や緊張を抱えたまま一日を回すには、精神的な潤滑油が要るのも現実です(私はそうなのです・・・)。年間5万円で
- 朝の立ち上がりが楽になる
- 気持ちが切り替わる
- 自分を雑に扱わずに済む
そう考えると、これは贅沢ではなく生活を回すための調整コストだと感じています。最も、私はスマホをいじるためだけにカフェに入ったりはしません。それは意味不明ですね。仕事人間の私にとっては、お持ち帰りが基本で、仕事場で飲んだりします。
私なりの結論

今の私の結論はこうです。
- ラテマネーは、数字で見ると確かに高い(事実やな)
- 年5万〜10万円は軽視できない(ラテマネーの重みを実感)
- それでも必要な人・時期はある(わりと根深い問題と関係)
その上で問題にしたいのは、「もったいない」で終わらせるのではなく、「どういう意識で、意図で使っているのか」ということ。やめるかどうかではなく、今日はそれが必要な日かどうか・・・それをコントロールして、うまく付き合っていく方がいいかもしれません。あ、でも感情第一にはなりたくないな。難しいな。結局は、理性と感情のバランスなのでしょうね。
賢く、しかし人間として

突然ですが、私は賢いクリスチャンでありたいと思っています。今回のラテマネーで、お金についていろいろと考えさせられました。聖書には、こんな言葉があります。イエス様が弟子たちに語られた言葉です。
わたしがあなたがたをつかわすのは、羊をおおかみの中に送るようなものである。だから、へびのように賢く、はとのように素直であれ。
新約聖書 マタイによる福音書 10:16
お金の使い方にも、これはそのまま当てはまるのではないでしょうか。
お金は「私のもの」ではない
まず前提として、お金は完全に私の所有物ではありません。少なくとも私はそう考えています。そう、聖書を読んで教えられました。神様から与えられているもの、管理を任されているものとして。だからこそ、何となく無意識で使ったり、気づいたら消えているという感覚のままでいるのは、やはり賢明ではないと思っています。嫌ですね。クリスチャンとして情けなく思います。
お金は、神様から託されたものであり、自分の快楽だけに使用するのは間違っていると思います。節制が必要なのです。その意味で、ラテマネーを数字で見つめ直すことは、信仰的にも必要な姿勢だと思いました。ケチケチするのは楽しくありませんが、かといって無思考でいるのもよろしくありませんね。
それでも、私はロボットではない
一方で、私はロボットではありません。疲れるし、迷うし、心も体も摩耗します。喜びや癒しがなければ、人生はとても乾いてしまいそうで。それくらいには、この世はわりと過酷です。楽しいこともあるけれど、なんだかんだ疲れてしまいますね。だからこそ、コーヒーやカフェラテという飲み物は、癒しです。心を緩め、気持ちを切り替え、自分を立て直してくれるような・・・そんな役割を、確かに果たしてくれていました。
これは甘えというより、人間としての必要。少しの小さな喜びや安心。それは、与えられた個性や感受性の一部とも言えるのだと思います。この感覚もまた、神様から与えられたもの。
鳩のように優しく、蛇のように賢く
だから私の結論は、とてもシンプルです。
- お金には、きちんと向き合う
- 数字から目を逸らさない
- でも、喜びや癒しを全面否定しない
ラテマネーを欲望のままに使うのでもなく、かといって、罪悪感で切り捨てるのでもなく、お金と相談しながら選ぶこと。もっといえば、神様と相談しながら日々を選択していくことだなと思いました。これが、「蛇のように賢く、鳩のように優しく」生きるということなのだと思っています。
小さな喜びも、神様の前で
カフェラテを飲む朝も、その一杯に感謝できるなら、それは決して無意味ではないと思っています。大切なのは、どれだけ使ったか・どれだけ我慢したか、ではありません。与えられているものを、賢く、丁寧に、そして人間らしく・・・いえ、自分という個性を尊重して使っていきたいわけです。
さいごに|ラテマネーへの葛藤とは

私がラテマネーに対して割り切れない感情を持つのは、金額の大小の問題ではないと思いました。総額も大事なことですけれどね。改めて考えてみると、お金の使い方そのものが、その人の姿勢や習慣をそのまま映し出すものだと感じました。
今、この日本は不況です。物価高だと叫ばれているのに、それでもカフェは人がたくさん。コンビニコーヒーも値上げしているのに、それでもみんな購入します。かつては100円の時代もあったのに(何なら、無料もあった)、いまや2倍に膨れているのではないでしょうか。
管理者意識を持とう
そんな事実と相反しているとラテマネーへの重みですが、これに解決を与えてくれるのは聖書だと思っています。聖書には一貫して、私たち人間はこの世のすべてを所有しているのではなく、管理を任されている存在だという考え方があります。これをスチュワードシップ(管理者意識)と呼びます。
この視点に立つと、1杯500円のラテも、月に数万円の固定費も、本質的には同じ問いを投げかけてきます。この使い方は、任されたものを誠実に扱っているだろうか?と。だから私は「小さいお金も見逃せない」と感じてしまうのでしょう。ラテマネーの重みを深く考えてしまうのでしょう。それはケチだからではなく、日々の小さな選択の積み重ねが、思考の癖や生き方の方向性を形づくると知っているからです。
きっとこれからも、私はラテマネーに葛藤していくのでしょう。でも、これは悪な事実ではなく、この葛藤がある限り、私はお金を「敵」にも「ご褒美」にもせず、神様から預かったものとして、対話しながら使っていくという練習なのだなと思うことにします。タイムイズマネー、ラテイズマネー!




