孤独はとてつもなく辛いですよね。私も様々な状況下で孤独を体験してきました。けれども、こういった孤独な時がなければ今の自分は存在しないとも言えるのです。すべて結果論ですが、だからこそ言える教訓を共有したいと思います。
人生の節々で起きる孤独

人間は誰だって、究極的にいえば孤独だと思っています。家族がいようといまいと、生まれてきた時は一人で、死ぬ時も一人です。見守ってくれる人はいるかもしれませんが、究極は一人なのです。
そんな御託はどうでもいい!・・・そう思われる方もいるかもしれません。私もかつてはそういう思いでした。上記のような、人間誰しもが平等で対峙することになる孤独ではなく、もっと日常的な孤独感が辛いなと感じるわけですよね。
私の日常的な孤独
正直いいますと、私はふとした時に孤独を感じやすいです。現在は一人暮らしで、平日や休日も一人行動が多いです。一言も喋らない日だってあります。そんな私ですが、「ああ、孤独だな」とふと感じてきたことを羅列してみました。
- 小学生の時、転校による孤独感
- 学生特有の仲間はずれや無視という孤独感
- 周りは和気藹々としている中で馴染めない孤独感
- 一人暮らしのふとした時の孤独感
- 人生の目的や目標が見えない孤独感
- 結婚できるのかどうかといった独身の孤独感
パッと思い出す限り、私はこのような孤独感を抱えてきました。じっくり考えればもっとたくさん、より深刻なことも出てくるかと思います。
一人を楽しむという孤独
孤独というのは、大概が辛いものでしょう。孤独が楽しいと思ったことは、実のところあまりありません。あるとすれば、下記の通りです。
- 大学生の頃、一人暮らしをして間もない時の一人で都内至る所を歩き回ったこと
- 寝ることなくオールでアニメを見ながらミシンをしていたこと
- 意味もなくカフェに行き、意味もなくなんとなく作業をしていたこと
書いてみて思ったのですが、単なる一人時間みたいなものですよね。全然深刻でもなんでもありませんね。事実、それなりに楽しんでいましたから。こういった、一人を楽しむという孤独は寧ろ人間には必要だと思っています。
なんとなく辛い孤独感
けれども、「消えたい」と思うほどの圧倒的な孤独感で押しつぶされそうになったことが私にはあります。ふと思いつくのは下記の通りです。
- 周りが次々と結婚をし、新しく家族を築いていくのを知った時
- 仕事が充実していて、キラキラと輝いて見えるような時
- ふと出かけたところが、どこも家族連れやカップルだった時
こんな感じでしょうか。状況的に、みんなが誰か大切な人がいる中で、ぽつんと一人でいることが辛いなと思うわけです。苦しいと羞恥心の狭間かもしれません。こういうのは、特に20代後半〜30代前半の特有の時期かもしれませんが。
本当に辛くてたまらない孤独感
私が本当に辛かった孤独というのは、最近ですと「なかなか仕事が決まらない」という転職期間の時でした。次々と落とされる度に、「受け入れてもらえないのか・・・」と愕然としたわけです。自分には価値がないのだろうか、みたいな根源的な絶望感です。
本当はそんなことはなく、単なるマッチングなだけのシンプルな話なのに、それでも、どうしようもなく上手くいかない状況に対して気弱になっていったわけです。何者でもないような自分に悲しみを覚えてきて、やがて「消えたい」と思うようになったこともありました。
このような経験から、「自分の役目」「自分が何者であるか」というのがわからなくなると、途端にどうしようもなく辛くなるものです。
孤独は必要だった
正直、私は孤独にはなりたくありません。孤独大好き!という人はそんなにいないかなと思いますが。しかし、自分の人生を振り返ると、孤独な時間が必要な時間であったと気づくのです。なぜなら、孤独な時間は嫌がおうでも自分と向き合う必要があります。今まで見ようとしなかった部分、知らなかった自分の部分と、必要に迫られて見つめ直す時間が孤独という状況です。
気楽な状況下ではないかもしれませんが、そこから成長していく何かがあると思っています。心に傷を負い、そして回復し、たくましくなっていく・・・。これが孤独の醍醐味なのかもしれません。いつだって、自分を本当に成長させてくれた時間は孤独な時でしたから。
実のところ、一人ではない
人間は弱いものです。強い人間なんて、そうそういないと思っています。人間は弱いから涙するし、疲れを感じるし、怠惰になることもあります。感情があるからですし、不安を抱えているからです。そんなわけで、本当に一人孤独で生きるのなんて、不可能なわけです。実際、本当は一人ではありません。
これ結論からいいますと、神様が共にいるということ。これは人間誰しもが受け取れる権利ではありますが、無条件の話ではありません。イエス・キリストの十字架を受け入れた者だけが知る奥義です。これを世間一般的にはクリスチャンなどと言われていますが、宗教という括りでは狭すぎます。人生そのものの価値観です。
ともかく、神様であり、人間を救うために人間として天から降りて人間として生まれたイエス様は、今もまだ天にいて(十字架刑ののち復活し、文字通り天へと昇られた)生きています。この方は、神様の奥義である聖霊という霊で、自身を信じるものの内に住んでおられるのです。私はこれを信じており、感じています。だから、実のところ、一人・孤独ではないと自信をもって言えるのです。
さいごに|孤独への向き合い方
孤独を受け入れられる人もいれば、受け入れられない人もいます。私も正直なところ、完全には受け入れておりません。クリスチャンとしての世の中との別離のような孤独は受け入れていますが、独身としての孤独は受け入れていないというのが正直なところです(どうしても結婚したいと今は強く思っています)。人それぞれ、状況によっての孤独へのキャパシティはあるかと思います。それでも、どんな孤独であれど「あなたに必要」だから、与えられているのは確かです。それがわかる日が、いつの日にかやってくるかもしれませんね。
するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。 というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。
新約聖書 マタイによる福音書 19:11-12
「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
新約聖書 ヨハネによる福音書 14:1-3
あなたが生きながらえる日の間、あなたに当ることのできる者は、ひとりもないであろう。わたしは、モーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てることもしない。 強く、また雄々しくあれ。あなたはこの民に、わたしが彼らに与えると、その先祖たちに誓った地を獲させなければならない。 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。
旧約聖書 ヨシュア記 1:5-7





