私は現在進行形で、5年以上マーケティング業界で仕事をしています。広告、プロモーション、価値訴求──そうした現場の内側に身を置きながら、近年、強い違和感を覚えるようになりました。自分自身が「価値のないものを売らなければならない場面」に何度も直面してきたから。そして、アンティークジュエリーを好むようになり、現代のハイブランド信仰そのものに疑問を抱くようになったからです。本記事では、なぜ私たちはマーケティングに踊らされ続けているのか、そしてビジネスにおける倫理観とは何なのかを、現場にいる人間の視点から整理していきます。
まず、現代は圧倒的な資本主義である

大前提、資本主義が悪だとか、0か100かの話をしたいわけではありません。ただ、現代は資本主義をとことん極め、最も歪んだ形で洗練されてしまった姿そのものだと感じずにはいられないからです。
かつての資本主義は、価値あるものをつくり、それを適正な対価で交換する仕組みでした。しかし、現代はそれらがすでに存在している、溢れています。モノやサービスが過剰に行き渡り、「何を作るか」よりも「どう見せるか」「どう語るか」「どう不安を刺激するか」が競争の中心になっています。
なので、価値そのものでは差がつきにくくなり、代わりに意味づけや物語、欠乏感の演出が商品化された状態に。これは、資本主義そのものというより、消費社会とマーケティングが極度に結びついた姿だと思わずにはいられません。
なぜ今「倫理」が問われるのか
現代は、マーケティングが過剰な時代です。商品やサービスそのものよりも、「どう見せるか」「どう語るか」「どう刷り込むか」に膨大なコストと知恵が注がれています。その結果、本来もっとも大切であるはずの価値の中身が、非常に見えにくくなりました。
私たちは日々、「安い」「便利」「みんな使っている」「有名人が選んでいる」という言葉に囲まれています。しかし、それらは本当に価値を示しているのでしょうか。それとも、儲け続けるために作られた物語なのでしょうか。
本記事では、現代ビジネスにおけるマーケティングの構造を整理しながら、「価値とは何か」「倫理とは何か」を考えていきます。
長いデフレが生んだ「安さ信仰」
日本は長いデフレを経験しました。その中で私たちの意識に深く刷り込まれたのが、「安いことは正義」という価値観です。時代的には、バブル崩壊後の長期デフレ(1990年代〜)で、給料が上がらない、雇用が不安定、将来が見えないなど。今現在(2025年)でも言えることかもしれません。今や、お米の値上げで大きなニュースになるほど、日本全体が貧しさムーブメントでいっぱいになっているのですから。
安さを求めることはある意味では当然かもしれません。しかし、安さを求める圧力は、必ずどこかにしわ寄せを生みます。
- 材料費のカット → 品質の低下に
- 人件費のカット → 働く人の給料の低下に
結果として起きているのは、モノの質が下がり、サービスが痩せ細り、私たち自身の収入も下がるという循環です。それでも、企業は売らなければいけません。これが、消費社会の根幹でもあると思いませんか?
「安くて良いもの」は本当に存在するのか

技術革新を除けば、基本的には「安くて良いもの」は本来成立しません。ただ、安いから悪いというのは少し違う気もします。ジャンルによりけりな話にはなりますが。私自身、ジップロックの袋で好きな形にテーピングして、例えばミニノートなどがジャストサイズに収まるような袋として日常的に使用しています。あとは、無印の200円にも満たない安いペンを。これがまた、書きやすい。手軽さも良いです。かつては1万円くらいした高級なペンをドヤ顔で使用していたこともありますが、高いから良いとも限らないのは確かです。物によりけりですが。
話は戻りますが、現代という消費社会はすべてが過剰です。大量生産の技術が確立されていなかった時代は、個人経営や小規模な商いが主流でしたので、消費者もその感覚を知っていました。どういうことかというと、手間をかければ高くなるとか、作り手の生活を守るには適正価格が必要といった、価値の認識です。しかし、量生産・大量消費の社会では逆転します。
- いかに安く作るか
- いかに大量に売るか
- いかに早く買い替えさせるか
これが現代の消費社会。何が良い、悪いとかは一概に言えるほど簡単な話ではないのですが、この仕組みを悪用しているビジネスは多くなりました。それを次にお伝えしていきます。↓
大量生産ビジネスと「ボロ儲け構造」
消費社会・大量生産ビジネスは、±トントンでは成立しません。企業もボランティアでやっているわけではないのですが、今の時代は正直いえばボロ儲け構造です。
- 長く使われたら困る
- 修理されるより買い替えてほしい
- 同じものを何度も買わせたい
マーケティング用語でいえば、LTVを意識している社会になっているということ。Life Time Value(顧客生涯価値)ということ。その名の通り、ひとりの顧客からその生涯を通じて得られる利益の総数です。サブスクリプションの仕組みのまさしくコレ。ですので、「1点もの、もう乗り気が起きないもの、長く使えるもの」のような本質的な価値あるものは、現代のビジネス的には不利になります。ボロ儲けができないので。
だからこそ、マーケティングが過剰になるのです。謳い文句では「一生物」と言いつつ、上位互換を提案されたり(アップセル)、さらにオプションを付加したり(クロスセル)、マーケティングはあの手この手で、非常に非常に、みなさんが思っている以上に巧妙です。
なぜ人は「権威」に安心するのか
現代は、モノやサービスそのものを売っているというよりも、もっと原始的な刺激を与えて売っているように私は感じます。その代表例としてわかりやすいのは、権威性。人は「人と同じだと安心する」と言われますが、実際に参照しているのはどこにでもいるような隣人ではありません。
- 芸能人
- インフルエンサー
- 専門家
このような、立ち位置的に上の人を意識したものです。人の真理として、他者よりも上でありたいものがあります。この欲求に踊らされている人は、マウンティングといった動物的なレベルの行動で周りを威嚇します。知性のかけらもないですが、現代はとても多いです。ともかく、他者よりも自分に優位性を持たせたいという強いナワバリ意識の突き動かされ、モノやサービスを購入している人は多いのです。企業はそれを知っています。そう仕掛けています。そしてボロ儲けです。マーケティングとは、その不安を巧みに利用する技術でもあるのです。
アンティークジュエリーが示す、もう一つの価値観
一点モノの美学
話は少し変わりますが、私はジュエリーが大好きです。所有に限らず、見ること知ることが楽しいのです。いつの時代でも、特に女性はジュエリーが大好きでした。そして、権威の象徴でもありました。ゆえに、現代といった消費社会とマーケティングの歪みが非常に大きく影響しているのが、ジュエリーだとも思っています。
私自身、アンティークジュエリーを好むようになったことで、価値観が大きく揺さぶられました。アンティークジュエリーは基本的に一点モノです。現代の機械技術では生み出せない繊細なカットや美的センスが、アンティークには存在しています。富の象徴だけではない、知的な意味を持たせたこだわりのデザインも然り。つまり、アンティークジュエリーにはブランド名ではなく、交換不可能性と時間に耐えてきた事実が含まれている、完全なる一点モノの美学がつまっているのです。
現代のハイブランドは、ボロ儲け構造
一方で、現代のハイブランドジュエリーは、高価格帯であっても大量生産が前提です。工業製品としての完成度は高い一方で、価値の大部分はマーケティングによって付与されています。いかに高価な宝石を使おうが、何であろうが、二点として作れないデザインや細かさなどは求められていません。企業はボロ儲けのために、価値をブランドそのものに結びつけています。
「有名だから」「みんなが持っているから」「芸能人が身につけているから」──そうした理由が、価値判断の中心になっているのが現実です。私はそこに、ある時から強い違和感を覚えるようになりました。価格が適正ではないと。ブランド信仰が強すぎます。さすがに、行き過ぎなのです。
「価値のないものを、価値があるように売る」という仕事
私のようにマーケティング業界に5年以上身を置いていると、きっと誰もが一度は直面することがあると思います。それが、「これは本当に価値があるのだろうか」と自問しながら売らなければならない瞬間です。真面目な人、深く考えてしまう人、倫理や貢献を仕事に見出す人に多い傾向があるなと。現代のビジネスは、あまりにも過度です。
- 中身よりもストーリーを盛る、大袈裟なお涙頂戴刺激
- 本質ではない強みを誇張した、言ったもん勝ち主義
- 不安や劣等感を刺激して、買わなくてもいいものを購買につなげる
数字の上では、買わせれば勝ちです。正解です。売上は立ち、評価もされます。しかし、正当性や美意識、倫理観がある人ほど、そこに強い摩擦が生じます。なぜなら、言葉と演出によって価値が上書きされ、真実が後景に追いやられている感覚から逃げられないからです。
私自身、この違和感を無視できなくなったとき、マーケティングという行為そのものを、改めて考え直すようになりました。自分は一体、何を売っているのだろうかと。ひたすら刺激を与える無理矢理な行為に、罪悪感すら芽生えたことが幾度となくありました。
マーケティングの「悪徳」とは何か
ただ、マーケティングそのものが悪なのではありません。問題なのは、下記のような本質的ではない訴求が全面にあるような時です。
- 中身より演出が優先されること
- 不安や欠乏感を意図的に煽ること
- 儲け続けることを唯一の正義にすること
倫理を失ったマーケティングは、ボロ儲けさえできればそれでいいといった、自分良ければそれで良しそのものなのですから。これらが、「考えない消費者」を量産します。そして、モノもサービスも、人の心もスカスカしてくるのです。
おわりに|価値を取り戻すということ
本来、価値とは静かなものだと思っています。本当に良いものとは、何でしょうか。節制が必要です。例えば、鋳造のような一度にたくさんつくれるようなジュエリーを大量に作って、そのあとは高級そうなラッピングでそれらしく見せれば高く売ることだってできますよね。何よりも、ブランド力。もう、ボロ儲け。これも消費社会。職人さんなんて、必要ないという社会に。
- 必要なときに
- 適正な価格で
- 上質なものを選び
- 長く大切に使う
何が本当に良いものなのか・・・。マーケティングは現代の魔術のようなものです。ただ、ビジネスにおける倫理とは、儲けを否定することではありません。何を価値と呼ぶのかを、誠実に問い続けることなのだと思います。私はきっと、これからも現代の消費社会とマーケティングに疑問を感じながら生きていくのかもしれません。



