【心の闇と虚無感】誰もが該当する、どんなに満たそうとしても満たされない理由

    外見を磨いても、SNSで承認されても、心の虚無感は消えない──それは人間が“この世のもので満たされるように造られていない”からです。孤独や過去の痛みを埋めようと、あらゆる手段を試しても、心の奥は空っぽのまま。唯一それを満たせるのが、イエス・キリスト。ただの宗教ではなく、人間は神様に造られた者として、本当の満たしに出会うという真実をここで語りたいと思います。神様を知らない方こそ、ぜひ最後まで読んでいただきたい内容です。

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    何をしても虚無に行き着く理由

    心の闇 虚無感

    心の中にぽっかり空いた空間。誰もがそれを持っているはずです。しかし、それに向き合うことなく、見ないふりをしている人も多い。怖いから。見たら崩れそうだから。または、気づかない人もいるでしょう。麻痺していると言ってもいい。それとも、この記事を見つけた人のことだから、きっとどこかで疑問を抱いて模索し始めている段階の人もいるでしょう。

    ともかく、実に多くの人が、その虚無感に耐えられなくて、外側を必死に取り繕って生きています。例えばわかりやすい例でいうと、なぜこれほどまでに外見が重視される世の中になったのでしょうか?豊かになった現代ですが(表面的)、何だか苦しそうな人も増えてきた気もします。SNSに、ファッションに、美容に、皆があまりにも夢中なのは、“中身の空虚さ”をごまかすためではないでしょうか。

    心がすかすかしているのです。だから、外にあるものを詰め込んで、どうにか形を保とうとする。それが今の世の中の「当たり前」になっています。心の中がぽっかりと空いているので、人は本当的に埋めたくなります。


    外側をどれだけ満たしても、なぜか虚しい

    どれだけ外見を磨いても、どれだけお金を稼いでも、どれだけ仕事で評価されても、どれだけ“いい人”であっても、心の奥の虚しさは、どうしても消えてくれません。たとえ、一瞬満たされたように見えても、夜になるとやってくる「何か足りない」という感覚。それはあなたが弱いからではありません。人間は、もともとこの世のもので満たされるようには造られていないからです。なぜこういうことが言えるのか、それは私がかつて虚無感でいっぱいだったのもありますが、心の虚無を唯一埋めてくれる存在を知ったからです。それをこちらでお伝えできればと思います。


    自分の闇|それは誰にも見えない場所にある

    そもそも私自身も、ずっと孤独でした。生まれてからずっと「寄留者」のように、生きていました。
    どこにいても、誰といても、心の奥底ではいつもひとり。「本当にわかってくれる人なんて、いない」と思っていました。これが私の一番の闇です。

    ですが、それだけではありません。何かいつも満たされず、私は20代のほぼすべてをブランド物を集めまくる人間としてコレクションと虚栄なファッションに走っていました。心は空っぽですが、ファッションを味方にすることで自分が自分でいられたのです。もし世の中がユニクロのようにロゴも何もないファッションだけしかない世界だったら、私は一体どう私でいられるのでしょうかと思ってしまうほどに、ファッションが大好きで、唯一でした。

    少し大袈裟にいいましたが、何かしらに無意識的に依存していることって、私だけではないと思います。他にも誰にも言えない過去、言葉にできない痛み、思い出したくもないような経験だってあります。こういった痛みからできた何かを埋めたくて、何かを常に求めているのかもしれません。ともかく、人は誰しも、自分だけの「闇」を持っているのだと思います。

    闇は基本的に不愉快なので解消したい

    この闇は不愉快です。少しでも自分が気持ちよくいたいのは、人間本能そのもの。幸せを求めるのもそれが理由でしょう。だからこそ、人は闇を埋めようとします。目に見えるもの、触れられるもので、なんとかその空洞を埋めようとします。いえ、それだけではなく、仕事など行為・活動そのものに依存する人もいるでしょう。過剰に、という意味で。ともかく、これらをいくら頑張っても、一時的にしのげるだけのもの。それで最後まで満たされた人を、私は見たことがありません。


    この世のどこにも、本当の満足はない

    人は、自分を満たすためなら、なんでもやります。仕事に夢中になり、ブランド品を買い、恋愛を重ね、時にはアルコールや依存にすがってでも「虚しさ」を消そうとする。まぁでも、25歳くらいになれば、一度は気づくのではないでしょうか。私はその年齢前後に初めて強く思うようになりました。もしかしたら、30歳かもしれませんね。「この世って、何をしても虚しいな」と。

    それでも多くの人は、それを深く掘り下げようとはしません。「そういうもんだよね」と受け入れてしまう。けれども私はそのまま生きていくことに違和感を持ちました。満足はいつ得られるのだろうかと、その存在とは一体どういうものなのだろうかと。


    心の空洞を本当に満たせるのは、イエス・キリストただひとり

    私の大好きな絵画「エマオの途上(ロバート・ツンド)」

    」この言葉を聞いて、宗教っぽいと思う人もいるかもしれません。私は、宗教の話をしているつもりはありません。これは“人間という存在そのもの”の話です。なぜなら、人間を造った方だけが、その人間の空洞を本当に満たせるのです。それが、天地創造の神であり、イエス・キリストという存在です。私はこの方を知ってから、心の虚無を取り除けて、唯一の人間の満足を与えてくださる方を知りました。

    聖書にはこう書かれています。

    イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。

    新約聖書 ヨハネによる福音書 6:35

    これは単なる慰めの言葉ではありません。あなたの心の深い飢えに対する、真実の約束です。あなたはこの言葉を信じますか・・・?


    経験した者だけがわかる──イエス様に満たされるとはどういうことか

    では、どうすればその満たしを得られるのか?それは簡単です。聖書を自分の目で読むことです。これは個人的に思うことですが、誰かの解説でも、まとめサイトでも、動画でもなく、自分の目で、ことばを読み、自分の心で受け取ることです。その上で、何かしらリサーチしても良いでしょう。ともかく、一番最初は自分で読んで、内容を知って欲しいのです。この「最初」の行為は最初にしか得られません。

    私は「ヨブ記」から始まりました

    聖書はどこから読んでも不思議と読めます。普通の本ではないな、と改めて今にして思います。そんな私が初めて聖書で読んだ章は「ヨブ記」でした。今でのその時の情景を覚えています。お風呂から上がり、なんとなく聖書をパラパラめくり、ヨブ記というものに惹かれたのです(数行読んでみて直感的に)。そこから、なぜか夢中になって読みまくりました。読み終えてから、私は自分の中で何かが変わったのを感じました。

    聖書の中に、キリストがいます。知識ではなく、出会いです。そう、出会いなので、自分の目で出会っていただきたいのです。聖書を読むというのは体験そのものでもありますから。私は聖書を読むことを通して、満たされました。あの空っぽだった心が、静かに、でも確かに、変わっていきました。外側の何かではなく、内側から満たされていくのです。聖書を通して、イエス様が私に語りかけてくれたのだと信じています。


    おわりに:その空間に、光が差し込むことを願って

    虚無感を感じることは、恥ずかしいことではありません。むしろ、それに気づいているというだけで、あなたは誠実です。この世のものでは決して満たされない空洞。その奥深くに光が届いたとき、人生は根本から変わります。

    あなたの心の闇が、イエス・キリストによって満たされますように。心の虚無に光が差し込みますように。

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