私は「ゴールデンカムイ(著者:野田サトル)」という漫画が大好きです。日露戦争後の明治時代において、金塊争奪戦を繰り広げる笑いあり、涙ありのスペクタル漫画です。エンタメとして最初こそは楽しんでいた私でしたが、あるキャラクターを見ていくうちに、深く考えることが多くなりました。それが、尾形百之助。彼に求めたものなど、クリスチャンの私が考察していきたいと思います。
尾形の行動原理

読者の多くの方が、彼の目的が何なのかわからないと疑問を抱いていたことでしょう。私もそうでした。漫画の中でも、多くの人が「こいつは何がしたいんだよ(イライラ)」みたいな目で見ていたのも事実です。
ともかく尾形の素性を洗い出していくと、それはもう極めて複雑です。いわゆる「普通」なところがそうそう見出せないほどに、複雑に複雑が積み重なっています。漫画の中の実在しないキャラクターではありますが、非常にリアルかつ作り込まれた設定ゆえか、読んでいて同情やら悲しみやら、一周回って愛おしさを感じずにはいられないのが私の正直な気持ちです。そんなわけで、彼の幼少期から、どんな人格形成がなされていったのかを追っていきましょう。
尾形の母親殺し
芸者であったトメは、花沢中将と身分違いの恋に落ち、百之助を身ごもります。しかし、彼はトメと百之助を捨て、別の女性と結婚してしまいました。だからこそ、花沢中将に捨てられたショックで、トメの精神は次第に病んでいきます。それでも彼女は、花沢中将がいつか戻ってくると健気に、または狂ったように信じ、花沢中将が美味しいと言ってくれたあんこう鍋を作り続けていました。
そんな正気を失った中、百之助を認識できなくなったトメは、百之助によって殺虫剤を食べてしまい亡くなってしまいます。結論、これは百之助の試し行為でもあり、母親のお葬式には父親の花沢中将が来るに違いないと期待もしていたのです。しかし、父親は葬儀にも現れませんでした。結局、百之助は父親を知らないまま育っていくのです。
尾形の祖父母
尾形自身が「バアチャン子の俺」とこぼしています。そんな祖父母の現在に関しては、公式ファンブックにて祖父母は尾形の入隊前に行方不明とされています。これは一体どういうことでしょうか。すでに亡くなっているともいえます。この考察はまた後ほどするにして、尾形は祖父母に育てられたのは間違いありません。子供の世話をしない母親の代わりに、祖父母が尾形を養育していたのは事実でしょうし、何よりも尾形もそこには彼なりの感謝や愛は多少あったのではないかと思いたいです。ただ、ハートフルな幸せな家庭環境ではなかったのも事実でしょう。
尾形の異母弟殺し
尾形には弟がいました。腹違いの弟、つまり花沢中将の本妻との間に生まれた息子であり、それはもう大切に育てられたと一目でわかるような男子でした。それが、花沢勇作。彼もまた軍に入隊しており、少尉という位をもって、順調にキャリアを歩んでいるような、いわゆるエリート坊ちゃんでした。
尾形は勇作とは腹違いの兄弟であり、双方それは理解していました。この時点で何か確執が起きそうかと想起してしまいそうな複雑な関係かと思いきや・・・なんと勇作は、この事実は軽蔑することなく、むしろ心から素直に尾形を「兄様」と呼び、慕い、兄弟愛を向けていました。尾形の人生で生まれて初めて、自分に愛をまっすぐに向けてくる人に出会ったわけです。兵卒と少尉といった立場の違いもある上、本妻と妾という確執、それらをあっという間に乗り越えてきた無垢な愛がそこにはありました。勇作はただただ本当に、自分に兄がいるということを嬉しく思い、尾形の存在を心から喜んでいたのです。
しかし、尾形は戦争のどさくさに紛れて撃ち殺しました。ここに、尾形の人格形成の何かを感じずにはいられませんね。後ほど詳しくお話しします。
尾形の父親殺し
尾形は妾の子として、母親からは見てもらえず、父親を知らず、肉親からの愛を知らずに育ちました。そんな尾形は父親と同じく軍に入隊しています。何かしらの執着のようなものを感じずにはいられませんね。
ともかく、実の父親である花沢中将を自殺に見せかけて殺害しました。上司である鶴見中尉の暗躍と、何よりも妾の子として実の父親から愛を得られなかった尾形の複雑な心情がそこにはありました。花沢中将を殺害した動機は、恨みというよりも別の期待があったように思われます(恨みも0ではないでしょう、非常に複雑です)。亡くなった愛しい一人息子・勇作が死ぬことで、捨てた妾の子を愛しく思うようになるのではないかと、どこかで歪んだ期待も確かにありました。それはまるで、尾形が幼少期にて母親が死ぬことで、母親が会いたがっていた愛しい父親が来てくれるのではないかという動機に近いでしょう。しかし、「呪われろ」と、冷たい言葉を投げかけられて親子の絆は切れてしまいます。いえ、最初からなかったのかもしれません。殺されたのは花沢中将ですが、尾形の心もこの時に殺されたかのように私には見えました。
ちなみに、中将殺しのこの事実は、尾形の弱みにもなっていると思います。鶴見中尉の野望に大きく加担したこと(邪魔であった花沢中将を殺害したということ)、これは尾形の今後の社会生活を大きく揺るがす暗い事実です。このあたりから、尾形は本格的に闇に踏み込んでいったように思われます。
無条件の愛を知らない子供
尾形の本音は作中どこを見ても、なかなか見えてきません。本当のこと言っているのか、引っ掻き回したいだけなのか、何を目的にしているのか、どうも空気を掴むような感覚にさせられます。そんな掴めない尾形ですが、花沢中将を殺害した時の言葉に関しては、後にも先にも印象に残ります。
「愛情のない親が交わって出来る子供は、何かが欠けた人間に育つのですかね?」と。自分は欠けた人間だと思っているのです。なぜなら、愛情なくして育ったからだと。これは精一杯の尾形の心の叫びでもあったと思います。元々、静かな子供ではあったと思いますが、甘えられる存在がおらず、両親の愛を知らず、間もなくして軍に入隊して厳しい訓練に耐えてきたのが尾形の人生でした。鶴見中尉の側近としても、さまざまな暗い仕事もしていたでしょう。光の道を知らずに、けれど渇望していたようにも思われます。
本当におばあちゃん子?
尾形がおばあちゃん子なのは本当なのでしょう。考察でしかありませんが、私は本当だと思っています。しかし、世間一般的なおばあちゃん子とは少し違うでしょう。たとえば、アリシパがフチ(おばあちゃん)を慕うのとは違うように。なんていうか、口だけに近い感覚。とはいえ、心の中では感謝や愛はあったかもしれませんが、義務に近い養育というのを理解していたのかもしれません。尾形の回想が作中で何度かありますが、祖父母は出てきません。いつだって、母親や勇作のことばかりです。よって祖父母に対してあまり思い入れがないというのもあるかもしれませんが、尾形自身が愛情を行動として表現することをなかったかもしれません。
また、これは憶測ですが、祖父母から言わせてみればなんとも複雑な思いで見ていたに違いありません。無条件の家族愛とは違うのでしょう。義務に近い、娘の置き土産として形式的に育てていたに近いかもしれません。それでも、尾形にとっては自分を大切にしてくれた人間だったわけです。または、本当に大切に育てられたのだとしても、尾形にはその愛を受け止めて育む心が壊れていたのかもしれません。どちらの線を考えても、胸にくるものがありますね・・・。
尾形の祖父母を殺した犯人は?
これも推測ですが、結論、尾形は祖父母を殺してはいないと思います。公式ファンブックでは、祖父母は行方不明とは言われていますが、それは案に殺害されていることを意味しているでしょう。誰かの手引きがあったとしか思えません。タイミングがタイミングなのですから。
では、まず誰がそれを行ったのか?これは邪推ですが、鶴見中尉が絡んでいる気もしました。彼は外壁から固めていくタイプです。月島や鯉登の例を見ても、わりと手段は選びません。そういっ暗躍なしに、蠱毒のような軍との間と、金塊争奪への野望などはできないのでしょう。鶴見中尉が非常に優秀やつ、やはり恐ろしい人だと感じずにはいられませんね。ともあれ、あの花沢中将の妾の子供ともなれば、早いうちに自分のテリトリーに引き入れたかったのでしょう。尾形は出生が非常に厄介ですから。ちなみに、後に出会う土方歳三からもそう評されています。鶴見中尉ほどの人が、尾形を素通りするわけがありません。事実、祖父母が行方不明になってまもなく、尾形は入隊しています。いろいろ想起させられますね。
尾形が求めた祝福とは
尾形は作中、様々な場面において「祝福」とう言葉を使っています。私はこれを「愛」と訳しています。愛には色々な形があります。まずはこれらを理解した上で、尾形の求めているものを考察していきましょう。
古代ギリシャ語では「愛」を表す言葉がいくつもあり、エロス、ストルゲ、フィリア、アガペーの4つがあります。聖書というよりも、キリスト教的にはこの4つの愛を用いて、神様の愛を説明することが多いです。
- エロス=求める愛
- ストルゲ=生まれつきの愛
- フィリア=分かち合う愛
- アガペー=与える愛
エロス(Eros)
- 意味:情熱的な愛、性愛、惹かれ合う愛。
- 特徴:相手を「欲する」愛。美や魅力に惹かれて生まれる愛情。
- 例:恋愛の初期のドキドキや燃えるような情熱。
- 神話:愛の神エロース(ローマ名キューピッド)に由来。
ストルゲ(Storge)
- 意味:親子や家族の間に自然に生まれる愛。
- 特徴:生まれつき、条件なしに感じる温かい愛。
- 例:親が子を思う気持ち、兄弟姉妹の絆。
- 性質:無償で安定的、育むような愛。
フィリア(Philia)
- 意味:友情や信頼の愛。
- 特徴:共通の価値観・目的を持つ仲間同士の深い絆。
- 例:戦友、親友、志を同じくする仲間。
- 聖書的視点:兄弟愛(「フィラデルフィア=兄弟愛の街」もここから)。
アガペー(Agape)
- 意味:無償で犠牲的な愛、神の愛。
- 特徴:見返りを求めず、すべてを包み込む愛。
- 例:イエス・キリストが人々の罪のために命を捧げた愛。
- 性質:最も高次の愛、完全な愛。
高次元の愛について
結論からいえば、アガペーという愛でしょう。これは非常に高次元な精神性がなければ、受けることも与えることもできません。4つの愛のうち、どれが必要かといえば、本当は全部必要です。それも聖書が教えてくれているように、クリスチャンの私には感じます。とはいえ、アガペーという無償の愛だけは、他3つとは明らかに別次元なのは事実。性愛であれ、家族愛であれ、友愛であれど、人間はどれも必要であり、備わっている欲求としてどれも本能的に求めますが、アガペーだけはそれらを飛び越えて「感じること」も「受ける」こともできない気がします。
時折耳にしますが、「母が子に向ける愛は、まるでアガペー(無償の愛)のようだ」なんて通説、私は嘘だと思っています。尾形の家庭環境はともかくして、私自身の母との関係においても、アガペーではないと思っています。大切に育てられてきましたが、アガペーはやはり別次元です。何をもってそう言えるのか、それは聖書を読んできたからこそ言えるものがあります。そして、尾形はその愛を知らずとも、本能的に一心に求めていたのだと思います。神様のことを本当に必要としている人は、総じて困難な人生を送ってきており、それはもう必死にあの愛を求めている人がいるのを私は知っています。尾形を見ていると、彼は神様の愛を必要としていたと思わずにはいられません。
神様の愛
愛さない者は、神を知らない。神は愛(アガペー)である。
新約聖書 ヨハネの第一の手紙 4:8
結論からいえば、アガペーは神の存在そのものの性質であり、人間の努力や感情から生まれるものではなく、神様から注がれる愛、つまり創造主からただただ一方的に、一心不乱に向けられる、廃れることのない究極の愛なのです。ここに、条件付けはありません。神様は、意味があって人間を創造しました。この地上をも、海も、空も、宇宙も、すべての生命を創り出した神様が、ご自身の姿形に模ってつくった生命は、人間のみです。他の何よりも、人間を特別に愛しておられます。よって、どうでもいい人間など神様の目から見ればいないのです。
私たち人間は、肉の両親こそが私たちの生みの親だと認識しています。それも事実ですが、ある意味では肉だけの話です。人間は肉だけではなく、魂や心といった、目には見えない要素もあって生きています。それらを与えたのは、本当の造り主である神様なのです。自分をも、両親をも造られたのは神様です。この方が、どれだけの愛をもって私たち人間を創造したのか、私たち人間は本当の意味では理解に及ばないでしょう。空より高く、海よりも深い愛を人間に対して抱いています。これがアガペーの本質なのです。もはや、人間の領域ではありません。クリスチャンである私はそう認識しています。
尾形の気づいた罪悪感
母を殺し、祖父母とも切り離され、父を殺し、自分を愛してくれた弟を殺した尾形は、その後に「罪悪感」を覚えるようになります。これまでの事実は、あくまで尾形の過去の話であり、ゴールデンカムイの舞台でもある金塊争奪戦という今軸にて、尾形は過去に対して罪悪感を抱くようになります。「なぜ今更?」というのが私の率直な思いでした。けれども、見ていけばすぐにわかってきます。
きっかけはアシリパとの出会い
尾形はアシリパと出会い、交流していくことで、弟・勇作を思い出すようになります。かつて自分の手で殺害した、過去として葬っていたはずの人物です。ついには幻覚なのか、悪霊なのか、尾形にしか見えない形で彼を苛みます。それほどまでに、尾形の中では勇作という存在が大きくなってた(いる)ことを読者の私たちは理解するわけです。それでも、尾形は勇作という存在を無視しようと、邪険にしようと向き合おうとしません。それはそうとしても、アシリパという現実的に目の前にいる少女が、どうしても勇作と重なるのです。
一つ言えるのは、「何かが欠けた人間」だと思っていた尾形でしたが、実際のところは欠けたところなどなく、アリシパを眩しく思えるほどの何かを感じるくらいには、普通に人間だったってことです。過去にはとんでもない罪を重ねていますが、それでも尾形は人間です。愛を求めています。それが人間です。
罪悪感と愛
死ぬほどの罪の重み
尾形は最終的に、自死を選択します。アシリパを目の前に、どちらが先に殺すのかといったような、切迫した場面になりました。しかし、そこで尾形は先ほど受けた毒矢の影響からか錯乱し、走馬灯のように過去からの自分の罪と、一瞬にして向き合うことになりました。「罪悪感」に気づくのです。それと同時に、「祝福」された道があったのだとも悟ります。ここらへんに関しては、クリスチャンの私から見れば、なんという聖書的な道を辿っているのだろうと一種の感動も覚えました。ともかく、尾形は自分の罪を認めたのでした。
もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
新約聖書 ヨハネの第一の手紙 1:8-9
やっと愛に気づいた
「勇作だけがおれを愛してくれたから」この台詞を尾形は残しています。本当にそうでしょうか?というのが読者視点の私の感想です。尾形って、なんだかんだで愛されていたようにも思えました。アシリパとも確執はありましたが、愛されていた時期もあったと思います。あとは側にいた白石も、それなりに交流していたようにも思えます。利害関係の一致からキロランケと交流はしていましたが、仲間でした。軍にもそういった人はいたかと思います。鶴見中尉も複雑な人でしたが、尾形を気にかけていたように思えるのです。また、祖父母だって全くの無感情ではなかったでしょう。母親もまた、尾形を愛していた時期があったかと思います。父親も然り。ここらへんは後の祭りのような感想ですが。人間の人生、様々な場所に置かれ、色々な人と交流をしていきます。何かしらはあると思います。よって、「勇作だけがおれを愛してくれたから」という台詞は寂しさも感じますが、けれども、空っぽのようだった尾形が愛に気づけたのはせめてもの救いです。
尾形は自ら命を断つという悲しい結末を辿りますが、それほどまでに罪の重荷を感じていたのでしょう。とはいえ、逃げたようにも見えなくもありませんが、または希望のない未来を感じるともいえますし、もはや退路は完全に絶たれたというような、死ぬ以外の道はないようにも見えました。ここらへんは非常に複雑です。呆然とさせられますね。悲しい結果ではありますが、尾形の中では何か決着がついたように思われます。
尾形について考察のまとめ

クリスチャン的に思うのは、尾形には神様を知ってほしかったと思わずにはいられません。結果的に弟の勇作を偶像視していたようにも見えましたが、まぁここらへんは私の邪推も入っているかもしれませんね。ともかく、総じて思うのは、尾形百之助にこそ、神様は間違いなく必要であったということです。人間の力ではどうすることもできない闇も、神様は必ずや助け、救ってくださるのです。それはたとえ、過去に殺人を犯したとしても、どんなに重い罪でも、神様はそれでもまだその人を見捨てず、愛してくださるのです。

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