「目には目、歯には歯」という言葉があります。「やられたら、やり返す」のような精神でしょうか。私はこれを勧めたくありません。また、聖書を見る限りイエス様は否定されています。それどころか、寛容の精神を述べられています。今回は、イエス様の精神をお伝えします。そして、倣っていきたいと思います。
右の頬を打つなら、左の頬をも向ける
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
新約聖書 マタイによる福音書 5:38-39
イエス様の生涯は、人に悪く言われようが、反論せず、やり返すことなく、それどころか優しさを返していました。悪を言う者・行う者に対して、むしろ憐れみすら持たれていました。
なぜ、そのようなことができるのか? イエス様はすべてをご存じでした。このような悪人たちこそ、あらゆる意味で貧しい人だからです。心が貧しく、神様の恵みある愛や優しさを知らない人だからです。この人たちも、同じ人間です。救われるべき人間だからです。
寛大な精神
このような人を、私たちはつい厭います。人情では、不快だからです。自分とはまるで違う人間だと、偏見すらあるでしょう。しかし、私の主イエス・キリストは、恩を仇に返す・・・ではなく、その逆の、仇を恩で返すかのように、すべてにおいて寛大でした。愛があったからです。
どこまでも神様に従順であった
イエス様は最終的に、カルバリーの十字架に掛けられます。そこでも反抗することなく、屠場につれていかれる子羊のように従順でした。ただし、これは人間に対して従順ではないです。寛容なイエス様だからといって、YESマンであれとは聖書のどこにも書かれていませんし、そういった描写は見られません。イエス様は常に、神様を見つめておりました。人の罪を背負うために、死なねばならない神様のご計画にあったからこそ、自分が屠られることさえも従順だったのです。
悪に報いたい、と言ってはならない。
私たちならば、どうでしょうか。不公平どころか、犯してもいない罪を被せられ、取り返しのつかないような刑に処されるとしたら、従順でいられるでしょうか。人間には、イエス様の行動はそうそう取れません。しかし、そのイエス様が私たちにはっきりとおっしゃいました。
悪に報いたい、と言ってはならない。 主に望みをおけ、主があなたを救ってくださる。
旧約聖書 箴言 20:22
この言葉には、ある意味では希望が見えます。神様は裁くこともされます。人間がすることではないのです。これは、神様の御業です。私たちは仕返しをする必要はないし、するべきではありません。神様はすべて見ておられ、すべてご存知です。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
この確信なしに、イエス様の十字架刑はありえませんでした。正しい人が、罪にかけられるという、値を計ることのできない代償でした。私たちはこのカルバリーの十字架を思い出し、大切な人にも、出会った人にも、すべての人に対して優しい言葉で接するべきです。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
新約聖書 マタイによる福音書 5:44-48