「救われる」という言葉は、私がクリスチャンになってから知ることとなりました。しかし、クリスチャンではない方や、なりたての方にとっては「わかるようでわからない」という言葉にも感じるかもしれません。何から救われるのか、主語は誰なのか──これらをひもときながら、救いの本当の意味を、自分の歩みと重ねて記していきたいと思います。
「救い」は神様が用意された、全体的な恵み

多くの人が「救い」と聞いて思い浮かべるのは、罪の赦しや、死後に天国に行けるという意味かもしれませんね。しかし、聖書が語る救いは、それを包括して、さらにさらに恵み深くて大きいのです。
新約聖書では、イエス様を通して私たちに与えられるすべての祝福を「救い」と呼んでいます。罪の赦し、永遠のいのち、肉体と心のいやし、神様のために生きる力、人生に必要な備え──そして、何よりも神様の臨在の中に永遠にとどまることができるという希望。救いとは、「天国行きのチケット」ではなく、「神様と共に歩む人生そのもの」なのだと、私は思うようになりました。
私自身、神様の救いを小さく見積もっていた
正直に告白しますが、私はこれまで、救いを受け取ったあとも、幾度となく神様を疑い、助けが本当にあるのかと不安になったことがありました。問題が山積みになったとき、「神様、本当にこれを解決してくださるのですか?」と、心の中でつぶやいた日もありました。
しかし、それは間違いでした。神様の力が足りないからではなく、私自身が神様の救いを制限してしまっていたからでした。イスラエルの民も、荒野で神様の数々の御業に信頼できず、神様を悲しませ怒らせましたね。私たちも同じです。神様が備えてくださった「大いなる救い」を、私たち自身が小さく捉えてしまうなら、それは本当にもったいないことです。
だからこそ、私はもう一度、心を定めたいのです。神様の救いを小さくせず、主がなしてくださった御業を過小評価せず、「救い」を信じて生きると。
救いは、もう成し遂げられている
「いつ救われますか?」はナシです。聖書には、救いが「すでに完成されたものである」とはっきり書かれています。
彼は、ただ一つの供え物をささげて、聖なる者とされる人々を、永遠に全うされたのである。
新約聖書 ヘブル人への手紙 10:14
この言葉にある「全うされた」は、ギリシャ語の完了形「テテレスタイ」です。イエス様が十字架上で最後に発した「完了した」という言葉(ヨハネ19章30節)も同じ完了形が使われています。つまり、救いはすでに成し遂げられたのです。イエス様の十字架のささげ物は、ただ一度限りで完全でした。二度と別の供え物をする必要はないほどに、罪の根源まで扱うことのできる、完全な犠牲だったのです。
「現在進行形」で救いを生きる
救いは成し遂げられたものですが、それを自分の人生に「適用していく」歩みは現在進行形です。常に、更新されていくのです。
先ほどのヘブル10章14節には、「聖なる者とされる人々」とありました。これは、イエス様の御業を信じて受け取り、その力を日々の生活に適用していく人々のことを指しています。私たちは、神様に選び分けられ、導かれ、神様の恵みの中を歩きながら、少しずつ「聖なる者とされていく」のです。このプロセスは、神様との関係が生きている証であり、救いが単なる理論ではないことの現れでもあります。
新しく生まれる=救いのはじまり
救いの出発点は、「新しく生まれること」です。これは霊的な誕生であり、神様によって生まれ変わるという出来事です。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその人のところにはいって、彼と共に食を共にし、彼もまた、わたしと共に食を共にするであろう。
新約聖書 黙示録 3:20
イエス様を心に受け入れるとき、私たちは一度限りの、しかし永遠に続く転換点を経験します。そして、そのときから神様は、私たち一人ひとりのうちに住んでくださるのです。
救いは「恵み」によって与えられる
「わたしたちが義のわざによってではなく、神のあわれみにより…わたしたちを救って下さった。」(テトスへの手紙3章5節・口語訳)
救いは、努力や宗教的な実績によって得られるものではありません。神様の一方的な恵みによって与えられるものです。私たちは、ただ信じるだけで、その恵みに預かることができます。
ノアの箱舟は救いの象徴

聖書に登場するノアの箱舟は、救いの完成を象徴しています。神様が設計し、ノアに造らせた箱舟は、完全なものでした。ノアと家族がその中に入った瞬間、彼らは完全な救いの中に置かれたのです。洪水が押し寄せようとも、箱舟の中にいる彼らは安全でした。なぜなら、その箱舟は神様の御言葉に従って造られていたから。手遅れになる前に、その箱舟に乗り込むことが、彼らにとっての「救い」でした。
私たちにとっての箱舟は、イエス様です。イエス様のもとに入るとき、私たちは完全な救いの中に置かれ、外の嵐から守られるのです。
信じ続けるという選択
私は神様を信じ、救われました。それなのに・・・人間とは弱いものですね。日々の出来事に一喜一憂し、神様を疑い、都合のいい時だけ感謝したり、賛美したりします。気まぐれといってもいいくらいに、コロコロと変わるばかあり。それでも、そんな私の中に、今も神様は住んでくださっているのです。一度でも信じたなら、その約束は変わりません。
だから私は、この救いを信じ続けたいと思います。イエス様の「完了した」という言葉にすがり、すでに与えられている救いを、もっと深く味わっていきたいです。
結局、救いとは何か?
それは、神様があなたに与えたいと願っておられる、人生のすべてです。赦し、いやし、備え、導き、そして永遠の交わり──このすべてが、すでにイエス様によって成し遂げられ、今、差し出されています。あなたはそれを、信じますか?それが、救いの答えでもあると思っています。
こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
新約聖書 ヘブル人への手紙 12:1

