【神様の計画】イエス様からいただいたメッセージ

    私はつい最近、ふと「死にたいな」と心から思いました。生きている意味がわからなくなったからです。この世は楽しいこともありますが、辛いことも多く、生きていけばいくほどに壁にぶち当たり、心は病み、絶望していました。

    INDEX

    人生に絶望している人は多い

    日本の自殺者数は知っておられますか?どれだけの人が、人生に絶望しているのかご存知でしょうか。警察庁の統計によると、去年一年間で約2.2万人らしいです。自殺含む一年間の死亡者数は157万人と言われています。男女比では男性の方が高く、年齢層では男女ともに50代が一番高いようです。

    ただし、比率の統計は提示されていませんでした。これを加味すれば、若い人の自殺率が高いなと個人的に感じました。・・・統計の話はここまでにしますので、気になる方は、警察庁の統計データをご覧ください。これが今の日本なのです。

    生きる意味って、何ですか?

    話は冒頭に戻りますが、私は人生に疲れていました。もう終わりにしたいなぁと漠然ながら思いました。本気ではないものの、どうやったら死ねるのかななんて考えたことがありました。ちなみに、自殺は十戒の殺人にも当たるので、絶対にやってはいけません。

    あわせて読みたい
    【聖書の十戒】神様を第一に生きることが、生きやすくなる道 私は聖書に出会ってから、ずいぶんと生きやすくなりました。その理由はシンプルで、私の内側に神様を迎え入れたからです。守られ、導きを感じています。その神様は、私...

    自分の人生は、自分で決める?

    暗い気持ちになり、気落ちしていた私は、ここである教訓を得ます。事はバプテスマを受けた後の約7ヶ月間、教会や聖書から離れていた時期がありました。ここで私は、完全に心を砕かれる経験をします。

    その当時、私はクリスチャンでありながら、神様の計画に聞き従うことなく、自分の計画で生きていました。ですが、これって世の中では当たり前だと思います。私自身、一年前はそれが当たり前で、31年間生きてきましたから。神様の計画など、知る由もありませんでした。

    欲望は破滅、どうせ塵芥になると学ぶ

    私たちを神様から遠ざけるサタンから攻撃は、心得ています。サタンは成功欲を掻き立ててきます。夢を見させ、神様ではなく自己コントロールを促してきます。

    例えば、お金を稼ぐことを第一に躍起になることや、名誉・有名になること、人脈を広げること、人よりも優位な立ち位置になれるようになど。時にガツガツと(熱心と)、他人と比べたり競争する気持ちを湧き立たせられ、自分の計画を生きるように進めてきます。一見すれば、主体的な生き方に見えて、好感度すら持てるかもしれません。

    しかし、この姿勢を聖書は一貫して否定しています。それを一言で言い表すならば、塵芥。明日生きているかさえもわからない我が身を、なぜ「稼ごう」だとか「有名になろう」「もっと、もっと」と生き急ぐのでしょうか。

    自分の成功のために生きたいの?

    すべて、私は経験してきました。成功へ続く道を歩むと、アドレナリンが出ている気がします。ある意味、中毒性すらあります。ましてや生活(お金や生き方)にかかっているので、コミット力も強くなりがちです。ですから、自分の成功を追い求めて、時間も労力もふんだんに使います。これがかつての私の生き方であり、バプテスマ後の約7ヶ月間の私です。

    ラットレースでした。何よりも、聖書の伝えるメッセージと大きく外れた生き方でした。つまり、神様からの恵みを受け取れない生き方をしていたのです。ですから、私は徐々に消耗していきました。人の力とは、なんと脆いことか。神様の前では塵芥です。その矢先に、私の場合は死にたいと感じたのです。ある意味では、降伏でした。

    神様にもう一度立ち返る

    ここからがやっと、一番伝えたい話に入ります。私は絶望の中、すべてをご存知の神様へと必死にお祈りをしました。今思っても、こういう時だけ神様に歩み寄るような最低な私でしたが、ともかく神様が必要でした。

    ここで、それを裏付けるある聖句をご紹介します。「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。(使徒言行録 4:12)」の通りだからです。

    もう私は必死でした。なぜ、私は生きているのですか?何のために生きているのですか?私って、存在する意味があるのでしょうか?私は誰から必要とされていますか?私が一人消えたところで、誰も涙してくれる人などいないでしょう、と。今思えばヨブのようですね。

    離れていた私を、すぐに引き寄せてくださった神様

    ともあれ、結論をいいますと、私はイエス様によって癒されました。救われました。一時離れていた私を、もう一度迎えてくださいました。喜んで、大切に迎えてもらいました。神様の愛に触れた時、私はもう死にたいなんて思わなくなりました。

    健全な心が与えられたのだと思います。もはや誰の言葉も届かなかった頑なな私に対し、イエス様は優しい御手をもって硬い心を耕してくださいました。

    私が受け取ったメッセージ

    私はイエス様によって御言葉を直接いただきました。何度か目にしてきた聖句ですが、この時ほどガツンと衝撃を受けたものはございません。それが、こちらです。

    恐れるな、もはや恥を受けることはないから。 うろたえるな、もはや辱められることはないから。 若いときの恥を忘れよ。 やもめのときの屈辱を再び思い出すな。 あなたの造り主があなたの夫となられる。 その御名は万軍の主。 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 全地の神と呼ばれる方。 捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように 主はあなたを呼ばれる。 若いときの妻を見放せようかと あなたの神は言われる。 わずかの間、わたしはあなたを捨てたが 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。 ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる。

    旧約聖書 イザヤ書 54:4-8

    さらにもう一つ。

    わたしを求めよ、そして生きよ。

    旧約聖書 アモス書 5:4

    聖書の御言葉による「究極の癒し」を体験する

    イエス様の愛のメッセージ(聖書の御言葉)は、私の魂奥深くに、確実に刻まれました。魂から受け取った時、確かに満たされる感覚がありました。この経験から確実にいえるのは、聖書の御言葉は、本当に本当に必要としている時に、驚くべき力を発揮されるということ。これ以上のものはありません。

    私たちが心の底から、しがみつくように助けてくださいと祈る時、イエス様はすぐに答えてくださいます。見えなかったものを、見えるようにしてくださいます。創世記にて、蛇がエバを誘惑した謳い文句な意味ではありません。あんな嘘トークではなく、本当に開かれていきます。つまり、幾度となく目にしてきた聖句が、不思議とさらなる深みとなって、私の魂の食物となるのです。

    もう、死にたいなんて思わない

    そんなわけで、「生きたくないな、死にたいな」と自分を蔑ろにしていた私という人間は、イエス様によって変えられました。愛と、生きる勇気、立ち上がる力を注いでいただきました。

    人生はいろいろあります。特に、今の時代は全体的に病んでいます。影響を受け、生きづらく感じることだってあります。どうした良いかわからない心の病や疲れ、これらを完全に直してくださる方は、一体この世界で誰がいるというのでしょうか。はっきり言います。イエス様のみです。

    イエス様の愛は特別です。

    クリスチャンである私は、自分を誇りに思います。いえ、神様にあっての自分という意味です。神様と出逢わせてくださった、ただただ神様の慈悲と恵みに感謝いたします。私たちには、イエス・キリストが必要です。この人を置いて、本当の意味で生きていける人はいません。この世は闇だからです。霊という目には見えない力も働いています。

    かつてバプテスマを受けた私が、聖書から離れ、神様から離れ、この世の成功や名誉、欲望に首っ丈になっていたのは恥ずかしいことです。しかし、この失敗すらも神様は益としてくださいました。全くもって、無駄のない働きをされる神様の計画には、畏れ多いです。こんな時、人間の計画がいかに陳腐で、塵芥なのか思い知らされました。この方からいただいた命、私は最後まで走り切りたいと思います。

    • URLをコピーしました!
    INDEX