都会に住む意味って、あるのでしょうか。正直、最近の私は東京にいることが苦しいと思うことがよくあります。正直楽しくないし、みんな疲れきっているからか人を見れば気が滅入るし、孤独な貧しい雰囲気が漂っている東京が少し疎ましく思います。一言でいえば「終わってるな」と。そんな終わっている都会にも関わらず、誘惑も多く、ついお金を使ってしまうので、自分自身も終わってしまいます。それでいて家賃は高く、暮らすだけで精一杯です。こんな場所で私は一生を終えるのか?と思うと、胸が苦しくなり、東京ではないところで生きたいと思うようになりました。そんな私の思考と結論を、この記事に記していきたいと思います。
昔は楽しかった“東京”
もちろん、かつては東京の生活を楽しんでいました。今から約10年前ーーー大学時代や20代前半の頃、地方から出てきた私は、東京のすべてがキラキラして見えました。イベントは豊富で、欲しいものはすぐ手に入るし、電車一本でどこへでも行ける。誰も他人に干渉せず、自分の好きなように生きていい。そんな自由さが、若い私には天国のように思えたのです。
価値観の変化と“都会の虚しさ”
けれど20代後半になって、徐々に違和感を覚えるようになりました。「東京って、なんか楽しくないかも」「刺激にも飽きてきたかも」と感じ始めたのです。「生きづらいな」と思い悩んでいた矢先、私は奇しくも聖書と出会いました。
聖書を読むと、心の目が開かれます。人間とは何か、私は何のために生まれたのか、がわかってきました(別の記事でここらへんもいつか書きたいです)。自分が今、何に命を使っているのか――そういった問いを持つようになり、現在の暮らし=東京の暮らしが、虚像に見えてきたのです。
東京にいても満たされない
コンテンツ消費に追われ、便利さに囲まれていながら、心は満たされない。どこか冷たく、不健康で、上辺だけの生活。華やかなようでいて、どこか品のない空気。そういった東京の「虚しさ」と、人間とは本来何のために生まれて、どう神様は望んでいるのか、生きる大きな指針を知った時、私はこの東京という都会のやばさに本気で気づいてしまったのです。
東京はお金がないとつまらない
それでも、東京の中で“素敵だな”と感じる場所はあります。それは、ハイエンドな世界――高級ホテルや、洗練された空間です。美しいものは好きです。その美しさは目に見えての造形美はもちろんのこと、使いやすさ、空間の心地よさなどです。ふと思うのですが、こういったラグジュアリー空間は、自然を元に設計されているようにも思えます。
実は前職でラグジュアリーな世界に少し触れる機会がありました。お金があれば、東京はとても楽しい場所です。美しい場所で、美味しいものを食べ、上質な体験をする。そういう生活は確かに憧れます。ですが、現実には、お金がなければそうした世界には近づけません。つまり、東京はお金がないとつまらない場所なのです。
お金がない人は、狭くて高い部屋に住み、欲望だけが刺激されて、満たされないまま毎日を過ごします。
物理的にも精神的にも“貧しさ”を突きつけられる――それが今の私のリアルです。
出たいけれど、出られない
東京を出たい!!!最近、そう思うことが増えました。
ですが、出るにはお金がかかりますし、引っ越し先もわかりません。東京以外の場所で、どう生きればいいのか、想像がつかないのです。だから、出たくても出られない。この“出口のなさ”もまた、都会のつらさかもしれません。大学とともに状況し、そのまま就職し、東京に閉じ込められる・・・こういう感覚を覚えます。なんとなくやってきたつもりが、私もう大学卒業から10年経っていますから。
気づかせてくれたのは、神様
けれども、こうして環境について考えるようになったのは、神様が私に気づかせてくださったことだと思っています。聖書を読むようになって、「今の暮らしは虚像だ」という確信が深まりました。東京という“バビロン”のような都市に住んでいることに、ようやく本気で向き合えるようになったのです。
出エジプト、ならぬ「出トウキョウ」

神様はすべてをご存知です。きっと時がくれば、私を東京から導き出してくださると信じています。それが、仕事の変化かもしれないし、まだ見ぬ結婚かもしれない。あるいは、思いもよらぬ別の出来事かもしれません。でも、いつかきっと「出エジプト」ならぬ、「出トウキョウ」が起きる。そう信じて、私は今、東京という場所で“出発の準備”をしています。
今は、準備のとき
休職中である今だからこそ、こうしたことをじっくり考える時間が与えられました。働いていたら、「東京はなんか生きづらいな、けれど、まぁいっか」ときっと見ないふりをしていたことでしょう。だからこの時間もまた、神様からのギフトだと思っています。焦らず、しかし目をそらさずに、次に与えられる環境に備えて、心を整えていきたいと思います。
