【証し】私はイエス・キリストを信じています。
はじめまして。さきといいます。ご閲覧いただきありがとうございます。自己紹介といえば「自分はこういう者です」という一声があるかと思います。それは、職業であったり、肩書きであったり、出身地を公言するなど。それに習うならば、私は「クリスチャン」です。
そもそも、クリスチャンって何ですか?
もしそう聞かれたら、「イエス・キリストこそ、私の神様だと人生を通して信じている人のことですよ」と表現するかもしれません。とはいっても、一般的な見え方だと、非日常的にも感じる言葉かと思います。日常会話で、神様やイエス様というワードはなかなか出てこないかと思います。ゆえに、「・・・あ、そうなんだねぇ」といった、そこから先の会話が続かない空気になりかねません。私自身、経験があります。
それこそ私は30歳になるまで、クリスチャンのクの字も知りませんでした。興味もありませんし、何だか心の弱い人が依存している概念だと思っていました。宗教と聞くだけでも強い嫌悪感がありました。そんな私が、なぜイエス様にここまで心を向けているかというと、一言では言い尽くせませんが、私はこの方によって生まれ・生かされ・愛されていると知ったからです。また、私は宗教に縋っているのではなく、心の中でイエス様を常に見つめています。
まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。
旧約聖書 創世記 28:16
わたしは限りなき愛をもってあなたを愛している。 それゆえ、わたしは絶えずあなたに 真実をつくしてきた。
旧約聖書 エレミヤ書 31:3
正しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。
新約聖書 ヨハネによる福音書 17:25-26
私は何者? 私はどう生きていけばいい?
今思えば、私は成るべくしてクリスチャンへと導かれたのだと思います。もちろんそれは、真の神・イエス様によって。
私のこれまでの人生は、例えるならば嵐でした。休まることを知りませんでした。実母からは「さきちゃんって、ずっと苦労しているよね」と言われたことがあります。その時、心にグサッと何かが刺さったような気がしました。喉と胸が痛かったです。その後、隠れて涙したこともあります。このあたりから、自分の人生の虚しさを感じてきました。
私の人生に喜びがありませんでした。惰性で生きている感覚でした。「このまま生きていて、何になるんだろう」と将来に不安ばかり、希望なしの状態になりつつありました。今思えば、鬱も入っていたかもしれません。常に、心が乾いていました。
そんな私を救ってくれたのが、イエス様でした。とあることがきっかけで聖書を読み、イエス様と出会いました。宗教だとか、哲学だとか、そんな概念を飛び越えて、私は超個人的な繋がりをこの方に感じました。神様を知ることは、私のこれまでの人生で一番の大きな発見と喜びでした。
神われらと共にいます
この世界が造られる前から存在し、今もずっと生きておられ、その方が個人的に私に興味と関心、愛をもって見守っておられるということ。この方こそが神様で、後にも先にも同じ方はいません。こんなこと、私は今まで知りませんでした。
聖書を通して神様を知ることで、私は自分の存在価値を尊く思うようになりました。居ても居なくてもどっちでもいい人なんか、誰一人いないということも知りました。神様は必要を以って私という存在を造られ、時代と選んで誕生させたのです。この奥義の深さに、私は言葉を失いました。あまりにも深いのです。
しかも、クリスチャンにならせていただいてからは、神様は私に約束をしてくださいました。「神われらと共にいます」ということを。私の人生が終わる最後の時まで、ずっと側にいてくださることも知りました。だからこそ、私は生きていけます。
自分が何者だとか、何のために生まれたのかだとか、そんなことはどうでも良くなりました。神様を知った今は、この疑問を追求することもなく、ただただ自分の人生を受け入れることができました。この奥義、少しでも知っていただきたくブログを作りました。これが私です。これが私の証しです。
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