【孤独と希望】私には「ふるさと」がない、帰る場所がない。

    どうやら、世間は今「お盆」「夏休み」だそうです。だそうです、というのも、私の今の働き方は個人事業主であり、夏休みだとかの概念がありません。そんなことはどうでもいいのですが、問題はどこに行くのかということ。大きな休みともなれば、実家に戻る方もいるのでしょうか。または、家族と旅行でしょうか。私には縁のないお話しです。そう悟った時、悲しくなり、この記事を書きます(ハッピーエンドです)。

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    私には故郷(ふるさと)がありません

    誰だって、どこかで生まれたハズです。私であれば、東京都で生まれました。しかし、育ちは別の地です。父親が転勤族だったため、東京や大阪、山形、秋田、山口など、転々とした10代を過ごしました。大学入学と同時に、私は東京で一人暮らしを始めます。いつしか、私の一番知る土地は東京になりました。ましてや、生まれた場所でもあります。ですが、ふるさとだと感じたことはありませんでした。

    私の両親は離婚しています

    私には、帰るべき家がありません。実家ですね。転勤族だったこともあり、両親は家を購入していませんでした。すべて借家でした。帰るべき場所は家ではなく、人だ。そんな言葉をどこかで聞いたことがありますが、両親は離婚しており、バラバラです。私は両親と仲が悪いわけでもありませんが、離婚を機に、どこか距離はできた気はします。頼れる親のようには、もう感じられません。親と子、という関係が希薄になった感覚はします。まぁ、それは自分が社会人になっているからでしょうか。うーん、それとは何かが違います。ここは上手く表現ができません。

    私には家族がいません

    変な言い方をしていますよね。家族がいないだなんて。生きてるじゃない、と。確かに両親は生きていますし、仲が悪いわけではありません。しかし、仲良しではない気がします。どこか、溝というか壁があります。実際、家族で共有すべき大きな話を秘密にされてきたこともあったりなど、私自身、信頼できる相手だとは思えないようになりました。悲しいですよね。ですから、私には家族がいないと感じることがあるのです。ゆえに、家族がいる人、帰れる場所がある人が羨ましいです。

    私には友達がいません

    幼少期から常に転校生だった私ですが、どこでも友達はいました。ところが、転々としていく中で、深い人間関係は築けませんでした。今でも記憶に残っていますが、小学4年生あたりから、この悲しみを悟りました。中学校も高等学校も、大学、どこでも友達はできても、その期間だけのような友達ばかりでした。私の人間関係の築き方が下手だったのかもしれません。時には裏切りもありました。次第に、私は友達をつくるという気持ちが消えていきました。今現在、連絡先には友達がいても、心を通わせられる人はいません。

    しかし、私にはイエス様がいます

    心をさらけだせる人はおらず、どこか空虚で、どこかでいつも孤独を抱えていました。そんな30年間を生きてきた私ですが、30歳のお誕生日を過ぎた頃、聖書に出会いました。そして、イエス様を本当の意味で知りました。イエス様というお方は、幼稚園に通っていた時から知っていました。キリスト系の学校だったので、イエス様誕生の劇で知った気がします。ですが、このお方を何をした人なのか理解していませんでした。30歳の時、思いがけず知り、そこから私の人生は変わりました。

    世間とのズレ

    世間が今、楽しい楽しい夏休みであろうとも、私は「羨ましいな〜」とはあまり思えません。なんといいますか、世間一般の楽しいという感覚とは、ズレてきたからです。私は旅行が好きですが、でも、それが最高の幸せだとは思いません。素敵なホテルに泊まることや、楽しそうな遊園地に行くこと、どこかのフェスに行くことなど、楽しいイベントはたくさんあれど、もはや羨ましいとは思えません。

    私には家族がいないのです、友達がいないのです。誰と行くのですか。私はただただ、側にいてくれる人がいれば、それだけで幸せなのだと本気で思います。あくまで空想のお話しですが(叶ったら良いですが)。なんて孤独な人だろうと、自分でも思わず驚きです。それでも悲しくはないのです。イエス様を知ったから。

    救いを知ったから

    私にもし、いつでも迎えてくれる家族が常にいて、帰るふるさとがあったならば、私はイエス様を知ることができたでしょうか。どうやって出会うかは、千差万別なので、たらればなんて意味がありません。それでも、ふと思わずにはいられません。私が孤独を知らなかったら、聖書を手にしても読んだだろうか。イエス様を求めただろうかと。ですから、私の人生には孤独が必要だったのだと気づけたのです。

    ふるさとは、天にある

    「これは相当キてますね・・・」思わず、そう感じた方もいるのではないでしょうか。「天ってなんですか?天国?31歳で何言ってんの?」と。これね、年齢ではないんですよね。イエス様を本当に知った時、自分の居場所はわかるようになります。この地上はすべて仮宿に過ぎないと気づくわけです。イエス様はこう言っておられます。「あなたの住まいは、神の国で用意している」と。

    私たちは必ず死ぬから

    私たち人間は、アダムという人間の罪から始まり、死ぬべき運命に定められています。これが罪の代償です。生まれてから罪を犯すのではなく、生まれてきた瞬間から、いえ、胎内にいる時からすでに罪は継承されています。これは霊の法則でもあるので、聖書抜きに誰も語れません。ともかく、死ぬのです。

    私たちは本来だと永遠に生きていた

    しかし、神様は人間をそのようには造っておられませんでした。蛇によって罪が入ってくる前までは、神様と永遠に、幸せな加護の中で生きることが約束されていました。この権利を取り戻すために、イエス様は人間のお姿でお生まれになり、私たちの罪の代価を肩代わりするために死なれました。しかし、イエス様は何の罪もなく、犯さないお方だったので、罪の法則は効きませんでした。よって、3日後に蘇り、天に昇られました。そして今も生きており、多くの罪人の贖いをしておられます。

    人は2つの死がある

    聖書には、真理が書かれています。人は二回死にます。私たちが寿命か何かによって、いつかは死にますよね。これが第一の死です。この死は、滅びではなく眠りです。第二の死は全員が死ぬわけではありません。イエス様が天から降りてこられる日です。この日、あらゆる年代のすべての人が蘇り(眠りから醒めるように)ます。裁きを受けるためです。ここで死ぬ人は、イエス様を救い主として受け入れなかった人です。いわゆる、クリスチャンではない人です。この人たちは、滅びます。生きる人は、イエス様を信じてきた人です。

    私は将来の神の国を見つめている

    さて、裁きの日はどんな人にも訪れます。ここで生きる人は、神の国に行きます。ここでは、イエス様も、イエス様を信じた人々も、幸せに暮らしています。この地上のような、悲しみや苦しみはないとイエス様は約束されています。労苦もなく、涙もなく、憎悪や怒り、妬みもないのです。こんな世界、この地上のどこにあるというのでしょうか。私はここに行きたくて、今この地上でクリスチャンとして生きることを選びました。

    ですから、今この地上で夏休みだのなんだの、実家に帰るだの、帰る場所があってもなくても、究極はどうでもいいのです。というよりも、私は現にないのですから。悲しいことに、ないのですから。このような悲しみもすべて消える、新しい生き方が待っている来世(神の国)に私は行きたいです。

    【さいごに】この世の孤独との向き合い方

    クリスチャンには、神の国という希望が与えられています。この素晴らしさは、私の言葉では到底伝わりきれません。なんなら、妄想だとか、痛い気な印象すら受けかねません。ですから、私は全ての人に聖書を読んでいただきたいと心から願っています。誰も滅びに至らないようにと。

    そうは言っても、今はこの地上で生きています。来世の前に、今。今をどう生きるのかも重要です。孤独との向き合い方ですが、私は神様に願っていることがあります。「どうか私に、家族を与えてください」こう願っています。離婚をしない夫婦関係を築きたいですし、子を大切にしたいです。それこそ、大人に成長しても、帰るべき場所をつくれるような母でありたいです。このような思いは、私が今孤独を味わわなければ、真剣に思うことはなかったでしょう。これが私のささやかな願いであり、孤独と向き合う希望の一つです。私の神様は与えてくださるお方です。いつまでも孤独に捨て置かれることはないのです。それを信じ、私は今日も生きたいと思います。

    私たちのあらゆる孤独、あらゆる思い煩い、すべてを救ってくださるお方はイエス・キリスト以外にいないのです。他のものは、いずれは過ぎ去ります。悲しいことですが、永遠はイエス様以外にないのです。

    この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

    新約聖書 使徒行伝 4:12
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