【教会に行く意味】やっとわかった

    私は毎週、教会に行っています。しかし、「行く意味があるのか?」と思うようになったのです。理由は単純で、「仲良しクラブじゃないんだから・・・」とか「教会に行かなくても神様と繋がれる」というもの。いろいろ葛藤した上で、私は教会の必要性を改めて感じましたので、赤裸々に意見を述べたいと思います。

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    教会がしんどいと思った理由

    なぜ教会に行くべきか、私は常々疑問でした。教会に行ったところで、教会に集まる人たちは(私含め)真剣に神様のことを考えていない人も多いと感じました。ですから、教会に集ったところで仲良しクラブ・サークル感があるだけで、正直いうと面倒くさいと本気で思うようになりました。

    「教会、行く意味あるんですか?」

    根が真面目な私は、教会へ行くことに疑問をもちながらも、「クリスチャンとして教会に行くべき」みたいな単純なマインドで通いました。なんだかんだで、教会に行く前は憂鬱ですが、帰りは「行ってよかった」と思えるので不思議です。そんな繰り返しでしたが、ある時に教会に足を運んだとたん、「もう帰りたい、こんなところ居たくない、不愉快だ」と強く感じました。そこで私は、聖書研究をする前に牧師さんに言いました。「教会って行く意味あるんですか?」と。

    牧師さんの口から説明はなかった

    私自身が、クリスチャン一年目です(というか、まだ一年迎えていない)。こんな私がいろいろと意見していいのか、記事にしていいのか悩みましたが、今の思いを綴りたいと思います。

    牧師さんに「教会に行く意味あるんですか?」と投げかけた途端、彼は悲しげな表情になりました。私はそれを見て、「しまった」と思いました。そのあとすぐに答えはもらえず、聖書研究のメンバーが集まったので、まずはお祈りが始まりました。祈りの中で、「なぜ教会に行くべきか教えてください」と神様に委ねていたことが印象的でした。

    安息日に教会に行く、だから教会に行く意味がある

    牧師さんの意見が聞きたかった私は、正直この対応に少しイラッとしました。はぐらかされたと思ったのです。この日の私はなんだか攻撃的で投げやりで、自分でも如何かしている気すらしました。牧師さんはそんな私をじっと見て、安息日のお話をしてくれました。教会に行く意味と安息日、私の中ではあまり繋がりを感じず、ますますイライラしました。しかし、すぐに心が動かされることが起こりました。

    「安息日とは、自分が何者かを確認する日です。神様と向き合う日であり、自分の存在理由(アイデンティティ)を毎週毎週、何度でも確認するためです。教会堂そのものは意味がなく、そこに人が集まるから意味があります。そこで互いに励まし合いながら、神様と出会う大切な日です」

    教会に行く意味がわかった

    教会に行く理由は、安息日の意味を追求した時に見出せることがわかりました。頭でっかちに理屈で考えても、きっといつまでも納得できないと思います。私は牧師さんからこのお話を聞いた時、心の戸が開かれた感覚がしました。もはや頭ではなく、心。まるで、イエス様がラザロのお墓の前で、石を取り退けなさいと言われた時のように。

    私自身が証人です。この日、教会に行かなかったら、牧師さんからこのお話は聞けませんでした。神様を信じる者が集まるとは、会話をすることでもあります。そこでも会話は、神様も聞いておられます。私に必要な言葉をくださるのです。教会に行く意味も、神様は人を通して私に教えてくださいました。心がとても満たされました。

    理屈で意味を探そうとしても無駄だった

    安息日は十戒(決まり・律法)です。だから守ります。けれど、律法主義に陥っていると、心がどんどんと閉ざされていきます。それがこの日の私でした。しかし、その心にある石の戸を取りのぞいてくださるのは、イエス様です。教会に来て、教会の人とお話をした時に答えは与えられました。もし、私が家にいて一人で教会の意味を考え込んでいたら、この答えには辿り着かなかったでしょう。いえ・・・もし辿り着いたところで、神様からの癒しはなかったと思います。文字でしか理解しなかったでしょうから。

    本当のところ、私はまだ神様のことがわかっていないから

    この日の体験で、私は一つわかったことがあります。私は神様のことがわかっていないと。神様がどれだけ私を愛しておられるのか、私は本当の意味で理解していないのだと。クリスチャンでいることに疲れ、神様の家(教会)に疲れ、生きることに疲れていたのですから。神様は私たちのルーツです。毎週ごとに与えられた安息日で、それを何度でも確認していく中で、教会に行く意味を心で感じていくのだと思います。

    私たちはすべて迷った羊です。昨日までは元気だったのに、今日は萎んでいることだってあります。一日として、完全なる平和は本当にあるのでしょうか。世に疲れた私たちは、神様の家で互いに励まし合う必要があります。その中に、必ず神様がいてくださるので、ただのサークルではないこともよくよく承知しておくべきだと感じました。

    人々がわたしにむかって「われらは主の家に行こう」と言ったとき、わたしは喜んだ。

    旧約聖書 詩篇122:1
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