東京が生きづらいと感じるのは、あなたが弱いからじゃない|聖書が描く都市と荒野

    気がつけば東京に住んで10年・・・私はいつからか、東京にいると心が落ち着かなくなりました。それは、虚しさに近いのかもしれません。聖書を読めば読むほど、神様に近づけば近づくほど、東京がいかに不自然で、いかに世俗的で、“私のような繊細”なクリスチャンには辛いものなのかを実感するようになったのです。人の多さ、情報の洪水、終わらない比較ーーーこれら全てから逃げ出してしまいたい。それが今の私の本音です。それでもこのバビロンで生きるのか?葛藤を交えた、どう生きるかの考察記事になります。

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    いっそ、荒野に逃げたいほどに生きづらい

    クリスチャンが荒野と聞くと、試練の場のように思えるかもしれません。いえ、私がそうです。イエス様がバプテスマを受けてから、聖霊によって荒野への導かれましたよね。悪魔に試みられるためです(それは二重の意味があり、各時代を超えた私たち全人類のためでもありました)。

    そういうわけで、私は荒野と聞くと辛いものを感じざるを得ません。それを知りながらも、私という人間はなんと弱いのでしょう。東京というバビロンが辛いがため、荒野へと逃げ去ってしまいたいと本気で何度も何度も思うのです。心が守れないと思ってくるわけです。

    純粋でいたはずの心が、すぐ濁っていく

    もはや荒野でもいいからと、逃げたくなるほどに東京というバビロンが嫌な理由・・・それは「自分の高ぶり」でした。ふと、気づいたんです。東京そのものというよりも、東京の嫌なところに染まってしまった私を。なぜなら、私は高ぶった目をしていないと気を張れず、そうでないと東京で生きていくにはあまりにも世界は冷たくて凶暴だったから。これは、安息日にそれをハッと自覚させられたのです。

    安息日は、特別に神様と深く交わる安らぎの日だと私は思っています。普段の日よりも一層特別感をもって祈り、みことばを聞いていました。ゆえに、心は澄んでいき、魂は癒され、私のうちに聖霊様が内在することを確信いたしました。しかし、教会から自宅への道のりが苦痛だと気付かされたのです。東京という世俗をまともに見てしまうと、たちまちあのその澄んだ感覚が削りに削られていくから。

    東京が生きづらいと感じるのは、甘え?

    「東京が辛い」そう口に出してしまえば、「なんて贅沢だ」なんて思われかねないのが現実です(暗にそう言われた経験があります)。東京は確かに便利です。仕事もあり、情報もあり、刺激も尽きません。けれど同時に、常に誰かと比べさせられ(参加しようとしまいと、比較の目で判別される)、目が休まる暇がありません。

    人を裁く目。比べる視線。無意識の優劣。見下し。こんなこと、私は日常茶飯事です。マウント状態。そして、みんなもマウント状態。誰も、平和な心を持った人はいないほどに。まぁ、それだけ日本人は自分軸がなく、人の目を気にしてしまう客観視というか・・・それも少し違うな・・・人への怯えと監視が根底的にあるのだと思います。それが私には、耐え難くなってきました。もうずっと東京で生きてきたのに、聖書で清き真実なる言葉をいただき、神様に近づくほどに、現実世界がいかに狂っているのか思い知るのです。

    東京に染まると、目が高ぶってしまう

    聖書には、こう書かれています。これは、真に神様を知った人にとってはよりいっそう強き言葉に聞こえるかもしれません。涙が出そうなほどに、私の心を打ちました。まことに真実です。

    すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。

    新約聖書 ヨハネの第一の手紙 2:16

    「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」・・・東京という都市は、この3つが異様な密度で詰め込まれた場所だと思っています。いや、むしろ目が高ぶらない方が不自然なのかもしれません。そして、私は神様を知りながらも高ぶる目を持つ自分が、どうしても好きになれなかったのです。


    では、東京(バビロン)でどう生きるのか

    バビロンに住みながら、バビロンに染まらない、これが今できる最善策でしょう。実は、聖書ではさまざまな生き方が示されています。つまり、「正解は一つ」ではないのです。神様は、人を同じ場所に、同じ生き方で閉じ込めていません。むしろ、置かれた場所と召しに応じて、いくつかの生き方を示しているのです。


    ① ダニエル型

    紀元前・・・旧約聖書で、バビロンの中で生きた、ダニエルがいます。バビロンの中枢で働いた人でした。私が聖書を読む限り思うのは、バビロンが好きではなかったと思うのです。好きとか嫌いとか、そういう二元的な話では済まないものだとは思いますが、ダニエルは心から望んでいたわけではなかったと思います。でも、逃げませんでした。でも、妥協もしませんでした。

    ダニエルは王の食物と、王の飲む酒とをもって、自分を汚すまいと、心に思い定めたので、自分を汚させることのないように、宦官の長に求めた。

    旧約聖書 ダニエル書 1:8

    ポイントはここ。住む(生きる)場所は変えられなかったけれども、「心の境界線」ははっきり引いていたのです。これは、都市で働き、都市で生きる人のための信仰の見本のようにも見えます。現実問題、それができていない私には、ただただ励ましをいただく感覚です。


    ② バプテスマのヨハネ型

    意図的に都市を離れ、荒野に身を置くということ。それが、バプテスマのヨハネ。彼には一切の妥協がありませんよね。彼は、都市に住まず、質素に生き、権力もいざ知らず、来るべき方(イエス様)を確信して荒野で孤独に生きてきた人です。それは自分が楽をしたいとかではなく、自分の使命を全うした生き方でもありました。

    彼は言った、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。

    新約聖書 ヨハネによる福音書 1:23

    これは逃避ではなく、役割としての荒野という場所でした。社会の中心から距離を取ることで、メッセージが澄む人もいるともいえますよね。


    ③ 寄留者(旅人)として生きる型

    どこにも定住しすぎないという生き方。聖書は、繰り返しこう語っています。

    愛する者たちよ。あなたがたに勧める。あなたがたは、この世の旅人であり寄留者であるから、たましいに戦いをいどむ肉の欲を避けなさい。

    新約聖書 ペテロの第一の手紙 2:11

    これは、場所の問題というより、心の姿勢でもあります。実は、このブログサイトのサブテーマが「寄留者」でもあります。何よりも誰よりも、自分自身に向けた励ましでもあるのが、寄留者だったのです。なぜなら、私は東京に住んでいますが、でも、東京に根を下ろしすぎないように生きているつもりです。また、都市特有の欲望・成功や評価を最終目的にしないという戒めなど・・・「ここが最終地点ではない」
    という感覚を失わない生き方こそ、寄留者の道です。


    ④ イエス・キリスト型

    我らがイエス様は、都市と荒野の往復をしていた方です。ある時は街に出ていき、またある時は一人寂しく、神様と一対一で静まる場所を自然の中で探していました。常にどこかへと赴き、場所一つに固定されなかったのです。いつでも人々の中に入り、でもしばらくして、荒野に退いた・・・この生き方は、単なる物理的な意味だけではなく、心の中の平安として見習うべき生き方でもあるのかもしれませんね。

    朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。

    新約聖書 マルコによる福音書 1:35

    都市に仕え、荒野で回復する。都市で働き、都市を住処にしない。この往復の信仰も魅力的ですね。個人的に、すごく憧れます。住処こそ静かなところで(都市から離れて)、都市は働きのために。


    正解は「一つを選ぶこと」ではない

    大事なのは、自分が今、どの型に招かれているかだと思っています。自分で自分のことをいいますが、理想はイエス様のような都市と荒野の行き来がいいです。いえ、荒野は言い過ぎか・・・でも、都市ではない静かなところに身を置きたいのです。しかし、現状で一番近いのは、ダニエル型です。もっとも、ダニエルのように覚悟も決まっておらず、不平不満ばかり述べているわけですが。ゆえに、簡単な選択ではないのです。

    ただ、一つ確信しているのは、こういった生き方的な信仰は固定ではなく、導きの連続なのだと思います。上記には述べていませんが、アブラハム、イサク、ヤコブもまた、数奇な運命でしたね。

    さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。

    新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1,8

    東京が生きづらいと思っている時こそ、聖書を

    私が私に向かって言いたいのですが、東京が辛いと感じたときこそ聖書です。無理に答えを急がなくていい。ただ、心の平安は聖書に書かれている神様の御言葉のみにあります。だから、こう問い直せばいいのです。私は今、どの生き方に呼ばれているのだろうか・・・と。

    東京が「バビロン」だと気づいたこと自体が、すでに一つの大発見。このマジックが解けたあと、どう生きるか。現代を生きる真のクリスチャンに問われていることかもしれません。聖書には、聖書だけが、その果てしない問いに複数の道を用意しているのです。そう、神様は道を備えてくださるのです。


    運営者(さき)が愛用している聖書と全く同じです。
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