死とは何か。人生で一度は考えたことのあるテーマだと思います。死んだらどこに行くのか、天国や地獄は本当にあるのか、死んだ人たちは今どうしているのか、など。先に答えをいいますと、死とは眠りです。ここにすべての意味が隠されています。
大切な人が亡くなったとき
私にとって大切な人の死は、人生で二度目です。私が18歳の時に祖父、31歳の時に祖母が亡くなりました。祖母は生前、仏壇に手を合わせながら「パパ(祖父の愛称)が見守ってくれているのを感じるの。今日もありがとう」と言っているのを耳にしたことがあります「天で見守っているよね。だから、私も頑張るね!」みたいなニュアンスかもしれません。ありがちな話であり、実はここに残酷さもあります。
霊魂不滅と・輪廻転生という考え方
私の祖母のように、「魂はどこか遠いところにいる」と考えている人もいるでしょう。こういった考え方は、いわゆる「霊魂不滅」説です。輪廻転生も抽象度を高めれば同じものでしょう。大前提、私はこの説を否定します。なぜなら、聖書には一箇所もこのような話は書かれていないからです。そして、よくよく考えてみれば残酷な話でもあります。もし本当に、亡くなったあとも自分を見守っているのであれば、それは苦しいことです。地上を生きている人が、大切な人が、死にかけて苦しんでいる場面を見た時なんて、どうでしょう?生き地獄です(死んでいますが)。
神様からのメッセージ
聖書には、死者は生者を見守っているとは書かれていません。見守っているどころか、死者は眠りについているのです。眠っているため、見守ることもできないですし、意識もありません。霊は見えず、霊は無意識であり、眠りであり、自我がありません。まるで、私たちが一日の終わりに眠りにつき、眠りの間は意識がなく空白のように。
兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。 すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、 それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
新約聖書 テサロニケの信徒への手紙 一 4:13-17
死とは、眠りである
眠りとは、なんてありがたいのでしょう。見守るなんかよりも、遥かにやさしいです。なぜなら、眠るのであれば、起きるからです。眠りの時間とは、不思議です。5分間であろうとも、8時間であろうとも、寝ていれば時刻を確認しない限り、時の経過などはわかりませんから。2000年前の人も、1年前の人も、それこそ8時間だって、起きる時は同じ感覚なのかもしれません。聖書では、死とは眠りであると神様がはっきりと述べております。
死が眠りであるのならば、起きるということですよね。その通りです。人間はもれなく死にますが、また復活します。目覚めます。起きるのです。この話をする前に、大前提の知識が必要です。聖書に書かれているのですが、死は2段階あります。第一の死とは、人間生涯の死です。第二の死は、最後の審判の時です。
義人は天国?悪人は地獄?
はっきり言います。聖書には、擬人が天国行きで、悪人が地獄行きだとは何一つ語られておりません。確かに善悪というものは存在しますが、人間社会の善悪が、死の先を決めるのではありません。
「そもそも、死後の世界はあるの?」という人もいるでしょう。あります。先ほど述べた、第二の死が決まるかどうかの時。正確にいえば、ここでは死ぬか生きるかが決まります。天国か地獄かみたいなイメージですね。直接的にいえば、イエス・キリストを信じてきたか否かです。ここには口先ではない、本物の信仰が必要です。
天上のラッパで、全人類が起こされる
どんな人も、命には限りがあります。死があります。それは死という名の眠りです。神様ははっきりと言われています。終わりの日、ラッパを吹いて私たちを起こすのだと。この時、私たち全員、あらゆる時代のすべての人間が目覚めます。一体どんな光景なのでしょうね。
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 15:52
黙示録に書かれている審判
さて、ラッパがなるとともに死者が復活とありますが、そもそもこの状況は一体何が起きているのか?ズバリ、イエス・キリストの再臨です。聖書では、イエス様がこう約束をされています。また地上に来られる、と。その時はかつてのような人の子としてではなく、神の御子としてやってこられます。何のために?それは、神様としてすべての人の審判です。引き上げられる人と、滅び行きの人とを審判します。
以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者と共にあるように。
新約聖書 ヨハネによる黙示録 22:20-21
この上記の御言葉は、聖書の最後に書かれています。聖書の様々な箇所でも、「私は来る」ということを述べられておりますが、一番最後にこのメッセージを残してくださっています。
イエス様を信じることは宗教ではない
イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
新訳聖書 ヨハネによる黙示録 11:25-26
イエス様を信じるということは、人が生きるための唯一の道です。弱いからすがっているのではありません。いえ、私は弱いです。そして、人間すべての人が弱いです。自分一人でやれるようで、鼓動一つでさえもコントロールができません。明日生きているかも本当のところはわかりません。私にとって、イエス様を信じるということは、宗教なんて人間の考えた枠組みではとらえられない人のすべてだと思っています。人生の目的レベルです。
救いはすべての人に必要
大前提、神様はすべての人を引き上げたいお方です。愛しているからです。しかし、決して破ることもできない律法が存在します。それによって、滅びか否かが決まるのです。私もこれを信じておりますし、私の大切な人や、まだ会ったことのない人、すべての人間に知っていただきたい真実です。だからこうしてブログを書いています。
神様は愛でもあり、同時に真実の方です。律法という真実の決まりを取りやめることはありません。ですから、信仰は必要なのです。信仰には、律法を守るすべてが含まれています。それを忠実に守るものこそが、神様にとっての義人です。人間世界での、良い人という感覚は一切関係ありません。お金持ちも貧乏人も関係ありません。
だから私は信仰を持ち続けます
本当の救いを知っているからです。聖書では、先のことがわかります。死後は眠りであり、終わりではないということ。ついで、審判が行われることを。私はこの時を夢に見て、今を生きていきたいと思っています。
死を永久に滅ぼしてくださる。
旧約聖書 イザヤ書 25:8
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい
御自分の民の恥を
地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。
【さいごに】死は終わりではない
私は初めこそ、実は「私も引き上げられたい」という思いから、信仰をより熱心に力を入れてきました。死にたいと思ったこともあるはずなのに、いざ滅びの話を聞くと、死にたくない思いが生まれました。そして、本当は幸せになりたいということを理解しています。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない(黙示録21:4にて)」人生を送ってみたいと強く感化されました。そこから、私の信仰は変わりました。
本当の信仰には、愛が必要です。これは宗教でもなければ、ご利益な話でもありません。愛は強制できません。心から愛しているから、その人のために何かをしてあげたいという、思いやりとある種の自己犠牲すらあります。ですから、愛は本当に難しいです。理由なんてありません。その愛があってこそ、信仰なのです。私はこの愛を、聖書の神様(イエス様)から教わりました。すると、もはや死は恐れることではありません。今生きていることは辛いけれど、すべては道のりの中なだけなのです。