仕事とは、何でしょうか。お金を稼ぐため、生活のため、自分の能力を発揮するため、人や社会のため、必要とされたいから、優越感を持ちたいから、自己実現したいから、などでしょうか。ゆえに、「仕事は辛い」「仕事生き方だ」「仕事は遊びだ」など、人それぞれの概念があるのではないでしょうか。私はこれらすべての気持ちが、よ〜くわかります。5回以上を転職をし、仕事と自分の相関性を生きながら体験してきました。自分なりに本気で、全力で向き合ってきました。結果、どんな職であれど、いかにやりがいを得ようとも、心の奥底ではいつも乾いていました。今ならその理由がわかります。神様を知らなかったから。そして、神様から与えられた自分の使命と、それを実現させる能力を使う方法がわかっていなかったから。
人生は、自分でつくるもの?
「人生って大変だな」と自覚したのは、小学四年生の頃でした。多感な頃に、親の転勤で大きく環境が変わりました。そして、自分の性格も、いつもどこか自信がない風に変わってしまいました。なんとか周りと馴染もうと頑張りました。しかし、高校一年生の頃、私はもう人間関係に限界がきました。不登校になったのです。振り返れば、私の学生時代は、どこにいても「どこか余所者」でした。
そんな私は、社会人になってから、「絶対に幸せになりたい」という思いが強まっていきました。私の十代はどこか寂しかったからです。大学生時代は遊び呆けており、しかし、後々残るものはなく、聖書でいう「放蕩息子」そのものでした(ここは、放蕩娘?)。詳細はいろいろ省きましたが、私の 20~30代は、「成り上がりたい気持ち」が強かったです。人生は自分でつくるんだ、と決意すらしていました。
【ここから重要】どんなに労苦しようとも、それが何だと言うんだ。
これまでパッとしなかった私でも、ようやく花咲いてきた時期がありました(過去形であり、実のところは花咲いていたかもわかりません・・・)。29歳頃でした。この時期は世間的にも、結婚する人や、仕事で昇進するなど、転機の多い時かと思います。私の場合、成功欲が強く、仕事に関して転機が訪れました。フリーランスのライターを始めました。その当時の私は、「会社員の頃よりも成功しよう(お金を稼ごう・あわよくば有名になろう)」と、血気盛んに思い描いていました。時間のほぼすべてを仕事に充てていました。それほど本気でしたし、やる気に満ちていました。
そんな私が、30歳の時に、聖書に出会うのです。私の活動にストップが入ったも同然でした。いかに努力をしようとも、いかに結果を出そうとも、いかにやりがいを受け取っても、いかに自分が大きくなっていくのを感じても、すべては風のように過ぎ去っていくという教えを学びました。聖書には、思わず鳥肌が立つほどに、この世の真理・人間という存在の姿がまじまじと描かれています。
この世のあらゆることは、去っていく。
少し長いのですが、一度読んでいただきたい聖書の箇所があります(下記の通り)。特に、成功欲が心の内にあるような人は、立ち止まって自分を考える機会にもなりますので、ぜひご覧ください。
伝道者は言う、 空の空、空の空、いっさいは空である。 日の下で人が労するすべての労苦は、 その身になんの益があるか。 世は去り、世はきたる。 しかし地は永遠に変らない。 日はいで、日は没し、 その出た所に急ぎ行く。 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、 めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。 川はみな、海に流れ入る、 しかし海は満ちることがない。 川はその出てきた所にまた帰って行く。 すべての事は人をうみ疲れさせる、 人はこれを言いつくすことができない。 目は見ることに飽きることがなく、 耳は聞くことに満足することがない。 先にあったことは、また後にもある、 先になされた事は、また後にもなされる。 日の下には新しいものはない。 「見よ、これは新しいものだ」と 言われるものがあるか、 それはわれわれの前にあった世々に、 すでにあったものである。 前の者のことは覚えられることがない、 また、きたるべき後の者のことも、 後に起る者はこれを覚えることがない。
旧約聖書 伝道の書 1:2-11
じゃあ、頑張らなくてもいいってこと?
先に断言しておくと、それは絶対的にないでしょう。聖書の上記の箇所だけを読めば、「じゃあ、何のために頑張るのですか?仕事するのですか? 何のために生きているのですか?」と思うでしょう。人生が虚しく見えてくるかもしれません。しかし、聖書を読み進めていくと、虚しさどころか、希望があります。私で言うならば、10代の頃から乾いていた心に、泉が湧いてきたかのような感覚です。私が初めてそれを理解した時、年甲斐もなく、一人きりの部屋で飛び跳ねてダンスしたくなりました。
何のために仕事をするのか
私は聖書に出会う前までは、成功したいという思いのままに頑張ってきました。それが、私の仕事をする理由です。お金は二の次です。それよりも、自分の心をとにかく満たしたかったです。自分の得意で、活躍できる仕事をして、自他共に認められて、それこそが私にとってお金では買えない喜びだと思っていました。実際、こういうお話は世間でよく聞きますよね。しかし、聖書には私のような人は、「空の空」と言われています。当時の私には、あまり理解できませんでした。ただ、何か言いようのないドキッとした、確信を突かれたかのような衝撃的な言葉でもありました。
聖書を認めてしまえば、私は一体何のために仕事をするのか? いよいよわからなくなるではありませんか!聖書を学べば学ぶほど、これまで頑張ってきた私は消え去っていくような気がして、何かとんでもない場所に来てしまったかのような感覚がありました。聖書の言葉はどれも素晴らしく、どれも心に突き刺さるものばかりでした。
本当に意味のある仕事がしたい
私は31歳の秋、ついにこれまで努力してきた自分を手放しました。30歳の時に聖書に出会い、私はむさぼるように聖書を読みまくり、当時の境遇と相対しながら葛藤し、結論としては、成功するために仕事をすることを手放したのです。フリーランスのライターを辞めました。この職業が悪いというわけではありません。動機が大事です。私は高慢になっていました。聖書を読めば読むほどに、私の心は砕かれました。もう、成功欲はなく、私は別のために仕事をしたいと思いました。それは、神様のため。聖書に書かれているとおり、創造主であり、私の救い主であり、友である、イエス様のために。
仕事、仕事と言う前に、神様を求めることから。
私は聖書に出会い、本当の意味で自分が変えられました。神様は本当にいますし、今も生きており、常に共におります。私たちが自覚していないだけで、神様はいつだって私と共にいてくれたのです。こういった個人的な出会いは、聖書を心から求めなければ、絶対に出会えません。しかし、あなたがもし本気でイエス様を知りたい・出会いたいと思えば、絶対に出会えます。見えなかった目が開かれ、聞こえなかった耳が開かれ、自分でも知らなかった心が開かれていきます。
私は聖書に出会ってから、かつてのフリーランスの仕事を手放すまでに、一年以上かかりました。成功という美味しそうなものから目が離せませんでした。心はいつだって、それを第一に首っ丈でした。ですが、それと同時に、私はイエス様のことが知りたくて仕方がありませんでした。「神様とはどんな方なのだろう? 私とどう関わっているのか? 私はなぜ生きているのだろうか?」この答えが欲しくて、求め続けました。神様と出会えた今、私の心は潤っています。もう乾いたあの頃の私はいません。
あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、
旧約聖書 伝道の書 12:1
【結論】では、「意味のある仕事」とは何を言うのか?
お待たせしました。おそらく、この「意味のある仕事」について聞きたかったかと思います。ここまで律儀に読んでくださった方は、もしかすると「こういうことかな?」とご自身で予想を持たれている方もいるかもしれませんね。先に言っておきますと、聖書には明確には書いていません。具体的な職業という意味で、具体的には書かれていないのです。最後に、私に望んだ1つの聖句をお伝えして閉じたいと思います。
わたしたちは家畜も連れて行きます。ひずめ一つも残しません。わたしたちは、そのうちから取って、わたしたちの神、主に仕えねばなりません。またわたしたちは、その場所に行くまでは、何をもって、主に仕えるべきかを知らないからです」。
旧約聖書 出エジプト記 10:26
自分の成功ではなく、神様のために生きたいと本気で思った私は、自分であれこれと計画することをやめました。そうではなく、神様が道を用意してくださることを知っているからです。自分では辿り着けなかった道、それどころか、なかった道でさえも、神様はこれでもかと優しく導いてくださるからです。それについてはまた、別で語らせていただきます。