【人生をより良くするには】結論、聖書を開くことから始まる

    私は10代の頃から、潜在意識や心理学、脳の使い方(脳科学)を学ぶことが好きでした。そんな私は、ありとあらゆるジャンルに手を出し、「人生をより良くするには」を追求してきました。結論からいいますと、すべては聖書に書いていました。自分よりも少し長く生きている人や、成功者の言葉は、一見すると凄そうに見えますが、人には人の道があります。聖書は、一人ひとりに合わせた道を教えてくれるので、どんな書籍にも敵いません。神様の言葉には活力と勇気と喜びがあります。それをお伝えしますね。

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    【私にとって】聖書の使い方

    開けば、必ず必要な御言葉がある

    生きがい 聖書 生きる意味
    • 神様に祈ってから開く
    • 神様に教えてほしいことを祈る
    • 神様は私の道をすべてご存知だから

    クリスチャンになった今の私にとって、聖書とは人生の羅針盤そのものです。聖書は単なる本ではなく、今も昔も初めから生き続けている神様と繋がることのできるツールです。「えっ、どういうこと?」と初っ端から思われるかもしれませんね。

    この世界を創造し、人間を造った方がいるということです。もちろん、それは聖書に書かれている唯一の神様。その方から、私個人へとメッセージをもらえるも同然なのが、「祈って聖書を開くこと」の醍醐味です。私はそれを毎日のようにしています。

    「人生は自分でつくっていくものだ」

    人生をより良く 聖書 どうすれば

    私は聖書と出会う前まで、「人生は自分でつくっていくものだ」と本気で思っていました。初めに言っておきますと、これは間違った考え方でした。経験上そう思いますし、聖書にも書かれています。

    人生は自分でつくっていくという考え方は、私が高校3年生(大学受験の頃)から始まりました。入る大学によって、その後の人生が変わると思っていました。ですから、希望大学に落ちるというのは、お陀仏のような一環の終わりでした。それから大学時代を経て、就職先を選ぶことも、人生を左右する重要な選択だと思っていました。

    他者に勝るという人生ゲーム

    人生をより良く 聖書 どうすれば

    何が言いたいのかといいますと、人生のあらゆる局面においての「選択」というのは、すべて私の努力によって決まるものだと思っていたということ。むしろ、勝ち取りにいくとでもいいましょうか。いかに他者よりも勝り、のし上がっていくかのようなゲームだと。これが、人生を成功に導くための基本だと思っていたのです。

    人生ゲームに敗北する経験

    ここまで語っておきながら、私の人生はあらゆる面で負け続けてきました。大学受験では、第一志望大学に落ち、滑り止め大学に入学しました。あれだけ頑張って大学に入ったのに、そこで学んだことを一切活かさない会社へ就職しました。会社は何度も転職をしました。途中、心が病んで休職したこともありました。もはや、輝かしいものなど何一つありません。しかし、これすらも自分が選択したことであり、だからこそ自分を責め続けてきました

    生きている意味が本当にわからなくなった

    教会 戻った

    私の人生は終わってると、20代半ばの時点で悟っていました。生きていても楽しくないし、惨めでした。今思えばですが、人から見たら私は恵まれていると見えるようです。結局は、そういうものです。しかし、当事者の自分としては、人生に疲れきって生きてきましたから。そんな自分史上のどん底時代に、聖書に出会いました。ここで私は、完全にお手上げでした。「私の人生、すべて神様に委ねます」と。自分の人生ですが、自分でコントロールすることなどできないと思ったからです。

    「私の人生は、神様がすべて備えてくださる」

    偶像 推し 生きがい

    いくら自分が努力しようとも、必ずしも成功したり、合格したり、輝かしい道を歩めるとは限りませんよね。もしそうであれば、私はここまで悩んでいたでしょうか。自分を責めていたでしょうか。「あ、もう無理だ」と、30歳の時に本気で悟りました。他者と競うようにのしあがる力はないと。

    世の中には、いくらでも凄い人がいて、その上すべてが理不尽で、まともに生きていくにはあまりにも厳しい世界でした。それでも自分なりに頑張ってきたので、心身を病んだりと、散々でした。そんな私がいえることは、自分の人生は自分でコントロールできないということ。そして、実際は自分でコントロールなど、一度もしていなかったということにも気づきます。

    「失敗だと思っていたことさえも喜びに変わった」

    聖書 豊かな人生

    過去は変えられませんよね。すでに起きたことですから。ただし、聖書を読み、神様に人生を委ねていくと、このあり得ない不動の過去が変わってきます。どういうことかといいますと、一言でいうならば「失敗すらも益にしてくださる」ということ。失敗だと思っていた過去の経験が、不思議と繋がってくるのです。そして、益にすらなります。詳しいことはここでは省きますが、私はこの時に悟りました。神様に立ち返ることで、あらゆる道をも整えてくださるのだと。そして、これすらも神様の計画のうちなのだと。

    明日のことさえわからないのに

    ヨブ記から学ぶ

    聖書を読めば読むほどに、自分で自分の人生を計画していく愚かさを知ります。明日、生きていることさえわからないのに。生きていたとしても、今日と同じコンディションで、また明日がやってくるのでしょうか。私たちは、本当に未来のことは何一つ知りません。それなのに、未来のことばかり考えて生きているのが人間です。そして、疲れ果てます。必ずしも成功するわけではないのは、身をもって経験しています。それこそ、まさか休職するほど心を病むことさえ思ってもいませんでしたから。

    【思い悩むな】聖書にはこう書いてある

    神様とは 聖書

    「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。

    新約聖書 マタイによる福音書 6:25-31

    「私の心をすべてご存知の神様」

    人生 救い 辛い 疲れた

    私は昔から深く考えては悩み、心はいつも葛藤だらけでした。人には「考えすぎでしょ」比喩されたり、親からも「これじゃ生きづらくなるだけだよ」など、私の性質をやんわりと否定されたかのように、「あなた大変ね」というニュアンスを言われ続けてきました

    それでも人に相談していたのが、過去の私です。自分の口を開かずにしまい続けるには、あまりにも心が重苦しかったからです。しかし、人に話せば話すほど、孤独を感じました。わかってくれる人はもはやいないと。そんな私は、神様に打ち明ける道を知りました。これは本当に祝福です。

    神様が知ってくだされば、それでいい

    ヨブ記から学ぶ

    昔の私は、「私の言っていることを理解してほしい」という思いが強かったです。それは対人関係においても、仕事においても。承認欲求ともいえますし、自分の意見を言わないと気が済まないこと、従順ではいられないなどの、意固地さがありました。しかし、聖書を読み始めてからの私は、こういった性質が一切消えました。どうでもいいのです。私の心の重みは、すべて神様が受け止めてくださるから。嘆きも悲しみも、言葉にならないことさえも。

    「恐れることはない」

    Proverbs 箴言

    聖書全体では、「恐れることはない」という言葉が365回登場すると言われています。これをどう受け取るかは人それぞれ。私としては、365は一年間の日数でもあるので、毎日変わることなく神様が側にいてくださるのだという励ましのようにも聞こえます。これは素晴らしい約束です。あの全知全能・天地創造の神様が、何度も「恐れることはない」と呼びかけてくださるのですから。未来に対して思い煩う必要がもはやありません。

    能天気な現実逃避ではなく、全信頼

    罪 聖書

    ところで、悲しいことですが「宗教や信仰は、ある意味では人生のよりどころだよね」と、まるで心の弱い人のすがるもののように比喩される方がいます。とはいえ、嘘ではありません。私個人的には、どう足掻いても事実です。私は現に心が弱いですし、苦しい経験も多々ありました。

    しかし、本当に強い人はいないと思います。明日のことさえわからない人間に、一体何ができましょうか。ですから、神様に拠り頼むことがおかしいとは思っていません。聖書では、むしろ信頼して委ねることを勧めています。私は人間の常識よりも、神様の言葉を信じてすがっています。これは現実逃避などではなく、私の道を歩んでいるだけです。神様こそが、私の道なのです。確実な道なのです。

    イエス様は創造主と出会える道、私の道の羅針盤

    門をたたきなさい

    イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

    新約聖書 ヨハネによる福音書 14:6

    【まとめ】誰に祈り、誰に拠り頼むのか

    ヨブ記から学ぶ

    祈りは重要です、神様に頼ることは重要です、と答えても、そこを変に湾曲しないでいただきたいと思っております。これが私の最後にお伝えしたい言葉です。どういうことかといいますと、聖書に書かれている神様ではない、どこか別の神に祈ったり、頼ったりするということには気をつけてくださいということ。これは私には耳の痛い話ですが、かつてスピリチュアル系にどっぷりと浸かっていた時に、アセンデッドマスターや宇宙人、ハイヤーセルフ、天使などに縋っていました。良いこともありましたが、結論は苦しみの道でした。

    大前提、聖書に書かれている創造主・イエス様をおいて、他に神は存在しません。他はすべて、まやかしです。世の中にはたくさんの惑わしがあり、イエス様を知る機会がありません。名前こそ知っていても、聖書を読まない限りは勝手な偏見が行き交います。私自身もかつてはそうでした。そんな私は、聖書を読むことで真の神様に出会いました。人生のあらゆる悲しみを救ってくださいました。ですから、今の私は本当にラッキーとしか言いようがありません。我が人生、イエス様を知るために生まれてきたのだと、正直本気で思っています。それほどの価値なのです。人生を良くするには、聖書を読むこと、これに限ると31歳の私は深く感じております。あなたもぜひ、聖書に歩み寄ってみてくださいね。

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    特徴:一番最新の訳で、読みやすい
    特徴:原語(ギリシア語・ヘブライ語)に忠実
    特徴:20世紀に最も親しまれたポピュラーな訳
    特徴:大正時代ならではの文学感のある文章
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