【推しが生きがい】知らずして、偶像礼拝していた話

    私は10~20代、オタクでした。「推し」は生きる楽しみでもあり、指針であり、唯一でした。ある意味では心の中の神様でもありました。そんな私は、31歳に抜け出します。きっかけは聖書でした。目が覚めた思いでした。何かを追い求めても、心は疲弊するだけ。楽しいようで、いつかは終わりがきますから。大事な時間、お金は奪われていきます。これ、いつまで繰り返すのですか? かつては「推し活」を趣味であり生きがいにしていた私から、本当に味わうべき幸福をお伝えします。

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    あなたの推しは何ですか?

    偶像 推し 生きがい

    一言に推しといっても、種類は無限大です。私自身、その年々で様々な推し活をしていました。ジャンルも何もかも違っています。基本的に飽き性であり、好奇心旺盛もであり、常に何かを追い求める習性があったからなのだと思います。そんな私の歴代推しをご紹介させてください

    私の歴代の推しジャンル(オタク文化)
    • 漫画やアニメなど、2次元キャラに熱い思いが募っていた(NARUTO/HUNTER×HUNTER/ONE PIECE/ベルセルク/名探偵コナン etc)
    • Visual系バンドにハマり、かっこいいと崇拝していた(the Gazette/DIR EN GREY)
    • ハイブランドをコレクションしては生きがいにしていた(Vivienne Westwood)
    • 海外俳優に憧れ、役柄によっては恋をしていた(マッツ・ミケルセン/トム・ヒドルストン etc)
    • クリスタルには力があると信じていた(透明な水晶を大量にコレクションしまくった)
    • 神社へのお参りに熱心になっていたた(出向いた先の神社は常にチェック/御朱印も集めた)
    • スピリチュアルにハマり、宇宙存在に思いを馳せていた(書籍/YouTube/セミナー/セッション etc)

    いつまで推し活をし続けるのか?

    オタク

    30歳頃まで、心の赴くままに、興味のあるがままに手をつけてきました。それが、上記のジャンルです。もしかするともっとあったかもしれません。その時々で熱中しているものが変わっていました。けれど、ざっくりといえばどれも同じです。では、何が同じかといいますと、「私が心を熱心に向けていた対象があった」ということ。多くの人にも共通して言えることだとも思います。

    ハマっては心移り、その繰り返し

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    まさに「生きがい」だったのだと今考えても思いますね。当時、何かとこういった推しにハマっては、なんとなくの幸せを感じていました。興奮するし、なんだか楽しかったです。ただし、この思いには賞味期限があります。いつかは終わりが来て、また別に心移りします。その繰り返しを何年も繰り返します。この俳優の次は、また新しい人、次はアニメにまたハマっちゃったなど。ある時、ふと思いました。「私はこれをいつまで続けるの?」と。

    気がつけば月日は過ぎていった

    オタク

    私は長きに渡る一人の推しがいるわけではなく、大体が1~2年で冷めていきました。そして、別のジャンルへ。とはいえ、基本的には推しの存在が途切れることはなかったと思います。悪くいえば、それほど熱中し、現実をまともに生きていなかったですね。楽しみはスマホやPCといった画面の中が主でした。そして、30歳になり気が付くのです。もう30歳だと! 正直、地に足をつけていない自分がいました。

    推しを「信仰」していたことを知る

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    オタクだった私は「信仰」とは無縁でした。「そもそも、信仰って何ですか?」「自分の生きている世界とは関係ないです」とも言えます。ところが、オタクであるということ自体が、実は信仰だったのだと気付かされました。自分の生活の中心は、基本的には推しの存在でした。日中は学校や仕事に勤しむものの、それはあくまで「仮の自分の姿」であり、推しに浸る時間こそが、私という人間が解放できる時間であり、幸福の一時でした。

    でも、人生が楽しくない

    オタク

    いくら推し活があろうとも、実をいうと人生が楽しくありませんでした。どこか、満たされないのです。そこから、スピリチュアルな世界にハマりました。もともと、アニメや漫画でも、よく読むとスピリチュアル的な要素は散りばめられており、基本的には抵抗がありませんでした。ところが、そのスピリチュアルでも結局は満たされませんでした。むしろ、どこか浮き足だったような、見えない沼に吸い込まれていく感覚すらありました。

    人生に疲れていた「どん底」の時に出会う

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    そんな折、私は聖書に出会います。出会いのきっかけは、一言でいえば「心の枯渇」から始まりました。31歳になったばかりの頃です。直前まで、私は長年から続くオタク気質な人間でした。オタクなまま年月だけ過ぎてきて、心の虚しさも感じてきた頃に、聖書に出会えました。これが私の人生のターニングポイント

    推しは、偶像なのだと知る

    偶像 推し 生きがい

    突然、「偶像」と言われてもピンと来ない方も多いかと思います。英語に直してみると、「idol」です。アイドルです。日本ではお馴染みの、アイドル文化。つまり、そういうこと。私のオタク歴史も、すべては偶像でした。

    聖書を読むと、偶像の禁止が書かれていた

    あなたは いかなる像も造ってはならない

    聖書では「偶像礼拝の禁止」が書かれています。これは宗教的な意味合いではなく、もっと単純に考えて大丈夫です。どういうことかといいますと、創造主(神様)が忌み嫌われる行為だということ。神様が嫌がることを、多くの人間がしているということ。・・・と、ここでいきなり、情報量が凄まじいと感じる方もいらっしゃるかと思います。

    ・「偶像礼拝って何?」 →詳細はこちらの記事

    ・「創造主? 神様っているの?」 →詳細はこちらの記事

    偶像礼拝をやめようと決めた

    偶像 推し 生きがい

    私のように、神様以外の何かを生きがいにすることや、追い求める人は多いです。そして、これは近年になってから流行ったものではなく、聖書を読む限りですと、古来より人は同じことを繰り返していることに気づきました。時代は違えど、常に何かに対して信仰しているのです。そして、等しく虚しいものを見ていたのです。一時的に楽しいと感じていても、結果は心が枯渇します。時間やお金、労力だけが過ぎていきますから。それに気づかれた私は、推し活が嫌になりました。もうすべてに疲れてきました。

    人は何かに縋りたい生き物

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    私は推し活をやめ、神様を信じるようになりました。「いやいや、これも推し活なのでは?」と思われるかもしれません。「ジャンルが違えど、信仰でしょ」と。その答えはイエス。ですが、神様の言われる偶像礼拝ではありません。神様のみへの信仰、これだけが正しいです。ちなみに、盲目的な意味ではありません。今からお伝えしますね。

    人はどのように造られたのか

    アダム エバ 聖書

    聖書を読んでいくとわかるのですが、人は神様によって造られました。進化論を信じている人は、頭の中がハテナマークになるかと思います。アメーバからだんだんと原始人、猿、人と移行していったわけでありませんからね。聖書に書かれています。また、スピリチュアル系や陰謀論にありがちな、宇宙人が人を奴隷にするために造ったわけでもありません。

    人は神様によって造られた

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    神様自らが、人の始祖・アダムを造ったことから始まりました。この時点から、人は神様に縋るように設計されています。神様が造ったのですから、神様こそが原初的な親でもあります。そして、この縋るは悪いことではなく、神様と共に歩むという安心の意味な意味合いがあります。親と子の関係に近いイメージです。一人ひとりをきちんと個人的に関わるということも聖書を読むと理解できます。

    神様を知ることは、人の幸せ

    聖書 偶像

    オタクだった私が、聖書と出会ったことで、慢性的に疲れ果てていた心が変わっていきました。少し不思議な言い方になりますが、心に命が宿った感覚です。本物の信仰は一つだと知ります。そして、その対象も唯一だと。それが、創造主である神様です。今までの偶像が、ますます虚しく思えてきました。

    神様を知らないから、偶像に走る

    偶像 推し 生きがい

    多くの人は、神様の存在を知りません。神様が存在することさえ、よくわかっていません。私もかつてはそうでした。知らないからこそ、人はどこかいつも不安定になるのです。生まれてきた意味さえわかりません。時に、人生を虚しく感じます。お金では解決できません。向かうべき先がわからなくなります。基本的に不安定だからこそ、生きがいを求めます。だから、偶像といった、人の生み出したものにある意味では縋るように、心を向けていくのです。

    偶像は、物理的なものだけではない

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    偶像とは、目に見えるような、形あるような「像」だけではありません。その考え方は、この記事を最初から読んでいけばわかるかと思います。物理的なものもそうですが、何よりも、心の中に偶像を立てることが、虚しいのです。神様の嫌がることです。例えば、お金や仕事だってそうです。確かに生活するためには重要です。しかし、それを心の神様のようにはするな、ということです。

    あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

    旧約聖書 出エジプト記 20:4-6

    神様を悲しませたくないと思った

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    人が神様よりも、偶像に心を寄せているということは、神様を悲しませる行為です。神様はすべて見ております。これは本当です。私たちを造られ、私たちが知る前からずっと愛しておられた神様を悲しませることは、人にとっても幸せな生き方ではありません。道を踏み外している状態ですから。

    神様は、信仰ある人を求めています。そして、神様の祝福に預かれる人は、神様の御心にかなった人です。ですから、神様の嫌がることはしたくない、そうハッキリと理解したのが私です。

    さいごに

    偶像 推し 生きがい

    ここまで長々と、推し活は偶像礼拝であることをお伝えしました。時代は違えど、古代から人は何か物や別の神々を人の手で作り出しては、心をそこに向けていました。これが信仰です。そして、間違った信仰です。人は時代が変われど、いつまでも繰り返しています。

    偶像をキッパリと止めることは時に困難ですが、そんな時は、ぜひ神様に祈ってみてください。神様は遠くから私たちを見張っているような方ではなく、すぐ近くにいらっしゃいます。私もそれを経験しております。この方のみが、心の枯渇や虚しさを取り払ってくださり、真に幸せを惜しみなく与えてくださる神様です。ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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    \ 聖書には主に「4つ」の訳があります! /

    特徴:一番最新の訳で、読みやすい
    特徴:原語(ギリシア語・ヘブライ語)に忠実
    特徴:20世紀に最も親しまれたポピュラーな訳
    特徴:大正時代ならではの文学感のある文章
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