【偶像崇拝とオタク文化】推し活と信仰の境界線を考える

    INDEX

    偶像崇拝とは? その定義を見直す

    私たちは日々、何かを「推す」ことで生きる力をもらっています。けれども、その「推し」——たとえばアイドルやアニメキャラを、どのような心持ちで見つめているか、一度立ち止まって考えたことはあるでしょうか?偶像崇拝とは、ただ神仏の像に手を合わせることだけを指すものではありません。

    辞書的にはこう定義されています。

    偶像=木・石・土などで作った像。特に、神や仏をかたどった像。
    または、憧れ・尊敬・妄信などの対象となっている人や物事。

    (出典:コトバンク)

    つまり、「idol=アイドル」という英語訳にも示されるように、現代の“推し文化”の中で人やキャラを盲目的に崇める行為は、広義では「偶像崇拝」と言えなくもないのです。

    推し活=偶像崇拝? 無宗教国家・日本の精神構造

    一神教文化が根づく西洋では、「偶像崇拝」ははっきりと「禁止すべき罪」とされてきました。聖書の十戒にも「あなたはいかなる像も造ってはならない」と明確に書かれています(出エジプト記20章)。

    けれども、日本は長らく宗教的に“無自覚”な国であり、「推し活」と「信仰」の境界が曖昧です。多くの日本人にとって、神社も、アイドルライブも、「心の拠り所」という点で大差ないのかもしれません。現代人は、神でも仏でもなく、画面の向こうの“推し”に祈りを捧げているのです。

    ファン=信者? 崇拝と消費の交差点

    推しのライブに足繁く通い、グッズを集め、言動に一喜一憂する——それはある意味で、信仰行為にも似ています。たとえば、CD特典や限定アクスタなどのグッズを買う人たちは、本当にその「物」自体が欲しいのでしょうか? それとも、その先にある“つながり”や“承認”が欲しいのでしょうか?

    ブランド品や高額報酬を求める人たちとも共通します。手にしても満たされない。それは、本当の“渇き”の正体が見えていないからかもしれません。

    アイドルを「手に入れたい」という欲望の正体

    ときに、アイドルを好きすぎて「結婚したい」とまで思う人もいます。でも、もし本当に結婚できたとしたら——その瞬間から、彼女はもう“アイドル”ではなくなります。なぜなら、偶像とは「距離」があってこそ成立するものだからです。手に入らないからこそ尊く、見上げる存在として輝いているのです。信仰している、とも言えるのです。違うという感情ベースの思いがあったとしても、行為はもう信仰そのものです。

    偶像崇拝は罪深い行為か?

    聖書では、偶像崇拝は重大な罪とされています。ただし、それは「偶像を持ったから」という短絡的な話ではないのです。「本来信じるべき存在=創造主から心が離れたから」こそ問題なのです。どこに心の拠り所を置いているのか、ということです。

    ちなみにクリスチャンであっても、偶像崇拝の誘惑から完全に逃れることはできません。神社に行かずとも、人間やお金、地位、SNSでの評価など、様々な“現代の偶像”に心を奪われることは十分あり得ます。人間とはいかに弱い存在か、日々思い知らされるほど。だからこそ、日々の祈りと聖書に立ち返り、神様への信仰を強めていく必要があるのです。

    もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。

    新約聖書 ヨハネによる福音書 15:10-11

    あなたの「推し」は、どこにいますか?

    人は皆、何かを崇め、支えにして生きています。それが「推し」でも「神」でも、重要なのは——その対象があなたを自由にしているか、依存に導いているかです。偶像崇拝とは、「誰を中心に据えるか」が根幹にあります。神様か、それ以外か、という問題です。この手の話は、神様を知った人が考えるべき内容です。神様を知った以上は、知った責任があります。知った上で、自分の拠り所をどこに置くかという、信仰の土台にもなるのです。

    さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

    新約聖書 ヘブル人への手紙 11:1-3

    信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、 罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、 キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。 信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。

    新約聖書 ヘブル人への手紙 11:24-27
    さき

    余談ですが、私は信仰が揺らいだ時、モーセに想い馳せます。出エジプトもいいのですが、ヘブル人への手紙11章は胸の内が熱くなり、私の信仰に火がつきますね。いつだって、神様を第一でいたいと思います。それが何にも勝る人生の宝になることを、私たちクリスチャンは知っています。

    365paradise
    異邦人ブログ
    世界最高峰のベストセラー・聖書をもとに、生きることの本質を追求し、文字として言語化したブログ「異邦人ブログ」。

    【サイトの掲載許可について】どうぞ、ご自由に掲載していただいて構いません。むしろ、嬉しく思います。御言葉の素晴らしさが広まっていくことを願っております。
    • URLをコピーしました!
    INDEX