【ヨブ記から学ぶ】疲れた時にしか得られないもの

    人生には、困難なことがあります。原因がわからず、心底疲れる時もあります。こういった時、私はある文を読むことにしています。それが、旧約聖書の「ヨブ記」。この章を一言でいうならば「かわいそう」と思わずにはいられない印象を受ける、個人的には聖書一引き込まれるお話です。主人公・ヨブは、人生の栄華から180度境遇が変わり、嘆き苦しみます。とはいえ、最後には神様が豊かに戻してくださるのですが、この沈みの部分こそ、私には何とも慰めになるのです。すべての疲れた人は、ぜひヨブ記を読んでいただきたいなと思います。

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    【自分が辛い時】世界で一番不幸に感じる

    ヨブ記から学ぶ

    不幸は突然やってきます。「そろそろ来るよ!」なんて、予告はされません。まるで嵐のようにやってきて、すべてを奪っていくような境遇へと、突き落とされることだってあります。生きてきて31年の私にも、何度かありました。

    高校生の時のいじめや、仕事が決まらずに廃人になったこと、お金が足りなくて生きることが困難になった時など。人生は不可解だらけで、辛い時は生きることが嫌になってくる時だってあります。主人公・ヨブもそうでした。

    もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてください わたしの一生は空しいのです。

    旧約聖書 ヨブ記 7:16

    心を病ませるもの

    疲れた時

    「疲れた」という言葉は、今も昔も多くの人が使っています。みんな、さまざまな理由があって疲れますよね。肉体だけでなく、精神的にも。両方感じる人だっています。ここで言いたいことは、人は誰しも疲れ、その疲れから、心は徐々に病んでいくのです。もはや、救いようがありません。

    もう生きていたくない

    ヨブ記から学ぶ

    ヨブは疲れきっており、「生きていたくない」「もう放っておいてくれ」と神様に訴えています。かつて、信仰深く神様を真っ直ぐに見つめていたヨブでさえこうなるのです。苦しく惨めな境遇になった時、心の病みにより、口から出る言葉は荒んでいきました。これは私たちにも言えることですね。

    だから、ヨブ記に励まされる私

    ヨブ記から学ぶ

    辛い境遇のヨブは、神様に訴えています。「こんなにも惨めな自分を、それでも生かす神様、なぜですか?」と。「生きることに疲れた」「死にたい」と訴えているようにも聞こえます。そんなヨブ記を読み、私は心が重い時こそ励まされるのです。

    「もう生きていたくない」「どこに向かっていけばいいかわからない、疲れた」という思いが私に出てきた時、ヨブ記には力付けられます。ものすごく響きます。ヨブを反面教師にし、神様の広大な知恵に身震いもします。それらによって、私の心は不思議と励まされるのです。聖書の言葉一つひとつには、力が宿っていると思わざるを得ません。

    なぜ、困難に遭うのか

    困難な時

    困難なのはどうしてか? 結論からいいますと、すべては神様のご計画にあるだけのことです。大前提、神様は私たち人を愛しておられます。ですから、いじめたいなんて思っていません。ただし、懲らしめはします。もし、我が子がいて、間違った道を歩もうとするのであれば、親として叱るのは当然です。そこには愛がありますよね。これと同じこと。

    懲らしめを受け入れるクリスチャン

    ヨブ記から学ぶ

    神様に立ち返った人(クリスチャン)は、困難を懲らしめとして受け入れています。そして、神様はそこで終わる方ではありません。必ずや、喜びをもたらしてくださいます。それを信じることも、信仰なのです。

    神様に委ね求める機会

    ヨブ記から学ぶ

    神様の備えられた道は、安全です。しかし、人は困難に驚き慌て、自分の力でなんとかしようと奮闘します。そして、苦しみのループに入っていくのです。クリスチャンはこんな時、祈ります。神様と個人的な対話を行います。自分の力ではなく、神様の力に委ねます。神様による道には、安息が約束されているからです。

    【教訓】ヨブは嘆くばかり、頼らなかった

    ヨブ記から学ぶ

    ヨブ記からは学ぶことが多いです。これは私の個人的な話になるのですが、聖書を初めて購入し、初めて全部を読めた箇所は、ヨブ記が最初でした。この時は、ただただ嵐のような境遇に圧巻されましたが、一年後の今は見え方が変わりました。

    一言でいうならば、「私が私が」「なぜですか?」という喋り方と、くどくど長く、くどくど論議しようとしていること。もうひたすら喋っています。これらの特徴に気づきました。さらには、クリスチャンとして、大事なことが抜けていました。神様に頼むということ。祈りです。訴えと祈りは、似ているようで違います。心が問われるからです。

    神様なしの生き方

    罪 ヨブ記

    私たち人間は、一人残らず、神様に頼る以外には真の平穏などありません。どこかで疲弊し、満たされず、人生を彷徨い続けるのです。お金だけでは解決しません。人との愛だけでは解決しません。なぜ、自分の人生がこんなにも虚しいのかというと、人の始祖でもあるアダムから始まった「罪」の継承です。

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    罪がある限り、平穏はない

    罪からの抜け道は、神様を知ることです。信仰の道を歩むことでしか救われません。具体的にいますと、イエス様を知ることから始まります。私もそうでした。

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    自分の力では何もできない

    ヨブ記から学ぶ

    ヨブ記の冒頭を読むと、ヨブは裕福で誠実そうな人物であったということがわかります。ただし、これは人間の目から見たもの。とはいえ、神様ご自身も、ヨブを気に入っておられました。ところが、サタンがやってきて、ヨブの人生をひっくり返します。すべてを失わせます。神様はそれをお許しになられたからです。

    この時点では、ショッキングな印象ですよね。しかし、神様には後の計画があったのです。こういうこと、人にはわかりますか? 未来を読む力などありませんよね。ここをいかにわきまえ、いかに神様を信じて尋ね求めて人生を歩むか、信仰の道はこういうものです。一寸先のこともわかりません。自分の力というのは、いかに傲慢なことか。謙遜の心なしに、この話は真に理解することが難しいです。

    私の力(賜物)は、神様からいただいたもの

    ヨブ記から学ぶ

    はたして、ヨブは自分の裕福さや真面目な心を、神様からいただいた賜物だと認識していたのでしょうか。ヨブ記全体を通して、ここはどうも読み取れませんでした。ただ、ヨブは清い者であろうと、熱心に神様の掟(律法)を守っていました。

    ところが、サタンによって人生を転落させられると、感謝はなく、むしろ訴えが出きました。「一体、私は何か悪いことをしましたか?」「私が何をしたというのか」と嘆くのです。

    このように、ヨブ記は全体を通して読んでいくからこその、深みがあります。

    【ヨブ記から学べること】神様を知るチャンス

    ヨブ記

    最後に、この言葉で締めくくらせていただきたいと思います。

    辛い時こそチャンスを掴もう

    ヨブ記から学ぶ

    辛い時こそ、神様と出会えるチャンスです。私から言わせると、神様との出会いは人生最大の宝です。人生の目的とは、神様を知ること。今私の抱えている不安について、例えば、仕事や結婚、健康、経済力など、挙げればキリがなく不安は付きもの。もし、これらに満足できていたら、神様を求めることなどあり得ませんでした。

    神様を知るというチャンス

    ヨブ記から学ぶ

    それどころか、「これは私の能力、私はすごい」と思っていたでしょう。だから、一体何なのでしょうか。すべては神様がくださった賜物です。そして、ヨブのように突然すべてをひっくり返されることもお許しになる神様です。言葉一つで可能な御方です。私たち人間は、何か思い違いをしていると気付かされます。

    ですから、今困難な人、辛い人、疲れた人は幸いだと私は思っています。心が砕かれている時こそ、神様を知るチャンスですから。これ以上の宝はないのです。

    \ 聖書には主に「4つ」の訳があります! /

    特徴:一番最新の訳で、読みやすい
    特徴:原語(ギリシア語・ヘブライ語)に忠実
    特徴:20世紀に最も親しまれたポピュラーな訳
    特徴:大正時代ならではの文学感のある文章
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