理不尽。これは誰もが一度は味わったことでしょう。私の場合は、仕事でそれを強く感じてきました。あるあるでしょうか、上司への葛藤が長年ありました。私の仕事人生において、オーナー、社長、上司、先輩、取引先の人、作家、インフルエンサーなど、いわゆる社会的に影響力の強いと言われるような人たちとの付き合いは、時に私を疲弊させました。正直、事実が本当に理不尽がどうかはわかりません。しかし、仕事に苦しみを感じてきたのも事実。言葉にならない労苦への葛藤がある、そんな方へお伝えしたい話があります。
人はマウントの取り合いをしている
大前提、人は平等ではありません。二人いれば、どちらかが上で、どちらかが下です。そんなことは一見ではおくびに出さずとも、水面下では行われているものです。私の十数年の長いような短い仕事生活の中で、感じてきました。見てきました。平等社会を謳っているような現代とはいえ、どこもかしこも差別だらけ。本当の意味で対等でいられる関係など、ほぼないに等しいのがこの世です。
聖書に書かれている真理の言葉
権力者に招待されたら、一応遠慮せよ。 そうすれば、ますます招いてくれるだろう。 深入りするな。 深入りするとはねつけられる。 だが、遠ざかっていてもいけない。 忘れられてしまうから。 彼と対等に話ができるなどと、思い上がるな。 彼が多くの言葉をかけてくれたからといって、 いい気になるな。 はずむ話は、お前を試すためであり、 ほほ笑みながらもお前を探っているのだ。 彼は打ち明け話を心にとどめず、 情けを知らず、 虐待したり投獄したりすることを意に介さない。 お前は、自分の秘密を守り、よくよく用心せよ。 極めて危ない橋を渡っているのだから。 〔これらのことを聞いたら、眠りから目を覚ませ。 生涯、主を愛せよ。 主に呼びかけて、救いを求めよ。〕
聖書(外典) シラ書 13:9-14
世の中すべてを警戒すること
人を疑えとは言いません。聖書全体を読んできた私から言えるのは、「自分の心を守ること」と「人に優しく」です。これを前提に、もう一度、上記の聖句を読んでいただきたいです。世の中は危ない橋だらけの道ですから、用心して生きていくのは賢明でしょう。とはいえ、いずれの戒めも、相手に向けたものではなく、自分自身の心に留めておくようなものです。
プライドはいつから?
時々思います。「私はいつからプライド高くなったのだろう」と。いつから、街ゆく人をみては、「私の方がイケてるな」とか「あの人、なんか変だな」など、いちいちジャッジをするようになったのだろうと。知らない人に対して、知っている人に対しても、何かと判断しがちな私はプライドが高いとか言いようがありません。
わかることは、心が廃れてきていること。人への優しさが、油断をするとすぐに無くなります。家族や知人には親切なのに、他者ともなると、びっくりするほどに無関心です。さて、理不尽だと思うからそういう心になったのか、それとも心がすでに廃れているから理不尽を感じてきたのか。こういった「なぜ?なぜ?」に対して、聖書には答えが書かれています。
プライドが高い人と交わっているから
やにに触れば、手が汚れる。 高慢な人と交われば、 高慢な人間になる。 手に余る重い物を持ち上げるな。 お前よりも力や金のある者と交わるな。 土鍋が鉄鍋とどうして仲間になれようか。 土鍋は鉄鍋にぶつかると砕けてしまう。
聖書(外典) シラ書 13:1-2
高慢(プライドが高い)でいて、幸せなことはありますでしょうか。手は汚れていき、身の程をわきまえることなく、人と衝突しがちです。自分の内側が目が出てきたのかもしれません。また、高慢な人と関わっていくうちに、悲しいかな、自分も影響されていくものなのでしょう。悪い種はたくさん転がっています。
同類同士、群れるものだ
生き物はすべて、その同類を愛し、 人間もすべて、自分に近い者を愛する。 すべての生物は類をもって群れ集まり、 人間も、自分に似た者と固く結び付く。 狼と小羊とがどうして共存できようか。 罪人と信仰深い人もこれと同じである。 ハイエナと犬は、どうして仲良くできようか。 金持ちと貧しい者が、どうして和を保ちえよう。 荒れ野のろばが、獅子の餌食となり、 貧乏な人は、金持ちに食い荒らされる牧草となる。 高慢な人にとって、謙遜が忌まわしいように、 金持ちにとって、貧乏な者は忌まわしい。 金持ちがよろめくと、友人が支えてくれる。 身分の卑しい人が倒れると、 友人でさえ突き放す。 金持ちがしくじると、多くの人が助けてくれ、 言語道断なことを口にしても、かばってくれる。 身分の卑しい者がしくじると、人々は非難し、 道理に合ったことを話しても、相手にしない。 金持ちが話すと、皆静かになり、 その話したことを雲の上まで持ち上げる。 貧乏な人が話すと、「こいつは何者だ」と言い、 彼がつまずけば、これ幸いと引き倒す。 富は、罪に汚れていなければ、善である。 貧乏が悪であるとは、 不信仰な人の言うことである。
聖書(外典) シラ書 13:15-24
同類ではないから、理不尽だと感じる
あなたがもし「この仕事は理不尽だ」と感じているのならば、それは「同等ではないから」の一言に尽きます。そして、多くの人が理不尽に感じるのも、大抵は「同等な立場にいないから」です。基本的に、どちらかが上で、どちらかが下。そこに良し悪しは置いといて、この世界はそういうものなのです。
神様によって定められている
その立ち位置を決められのは、神様です。人を造り、道を備えているのは神様だからです。差が生まれたともいえますが、それを感じている自分の心が問題です。プライドという心が、理不尽だと叫んでいるわけです。
狼と羊の関係
誤解しないでいただきたいのは、お金持ちだから悪だとか、貧しいのは美徳だとか、善悪を言いたいわけではありません。プライドが高い人と、謙虚な人とでは、同じ立場・同じ世界では生きられないというだけ。つまり、狼と羊の関係です。これが、人が理不尽さを感じる正体です。そこに納得できないのは、すべては自分の心の問題です。これがプライド。
どうすれば、理不尽なき世界を生きられる?
結論、自分の心を変えるしか方法はありません。よく言われることですが、他者を変えることはできません。ちなみに、これは根性論ではありません。上記でもお伝えしたように、理不尽と感じた以上は、別世界の人間が相手だということ。そして、あなたは羊で、相手は狼だということ。だから、分かり合えないです。同等の思いや性質ではないから。ですから、自分のプライドを抜き、同等であろうとしないことです。
人に仕える者になること
自分の立場を高くするのは、行いだと思っています。「人に仕える人になりなさい」と聖書に書かれていることから、人のために動ける人は幸いだからです。何よりも、神様がそれを認めてくださいます。代表例として、イエス・キリストが挙げられます。彼のようになれる人は、後にも先にもいないでしょう。しかし、彼を目指すことは誰にでもできます。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
新約聖書 マルコによる福音書 10:42-45
私たちは、常に喜んでいよう
いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
新約聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18
先に喜んでいること
暗い世の中、暗い心で居続けると、すべてが曇っていきます。悲観した人生は悲しいものです。そこを終着点とするのではなく、聖書はさらにその先を示してくださっています。それが「いつも喜んでいなさい」ということ。ここでは「いつも」と書かれています。たとえ理不尽だと感じたことでも、喜びを忘れないようにすること。これは、自分の心を守る意味でもあるのです。
歯向かうのではなく、差し出す
喜んでいなさいとは、カラ元気のように演技をせよというわけではありません。ここには、表面的ではない、隣人愛があります。聖書には、隣人愛(身内だけでなく他者も愛せよ)を説かれています。そこには犠牲があります。人に仕える心と、プライドに影響されない心があります。
左の頬を差し出す
しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
新約聖書 マタイによる福音書 5:39
皇帝のものは皇帝に
イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。
新約聖書 マルコによる福音書 12:17
【さいごに】プライドは虚しく、理不尽は虚像
聖書を一通り読んできた私としては、どんな人も、すべて神様の計画が存在すると認識しております。ですから、冒頭で述べたような理不尽に感じる立場でさえも、神様はそれをお許しになって、あなたへと必要だから与えているのです。悪意はなく、すべてが最高最善の道です。ここを歪ませるのは、理不尽を感じるプライドです。
ここで重要なのは、事実と感情を一緒くたにしないこと。立場に上下があろうとも、それが何でしょうか。ここに、プライドがあります。プライドがあるから、人は理不尽に感じるのです。そうではなく、イエス様が生涯説いていたような隣人愛があれば解決します。自分の心が、虚しきプライドから守られます。平和のうちに、今あるものに満足し、人に仕えることができます。それで満足し、理不尽な心を神様に取り除いてもらえるようにお祈りすることも重要です。