いつの間にか、世界は大きく変わってしまった気がする。それも何か虚無な方向へと。いつからスマホ依存が騒がれるようになった?この小さな板一つで何でもできてしまうから?何でも出来てしまうというわりに、私たちはこれによって失うものが大きいのではないか?そんな、スマホのこと・・・とりわけSNSについて、私は辞めることを強く勧めたい。
SNSがこんなにも疲れる理由

シンプルに、意味もなく他人の人生を覗いてしまう構造だからでしょう。SNSは心理学をとことん駆使した仕組みだと思っています。それを知らなければ、いつまでも踊らされたままです。どういうことかというと、人間に備わっているある心理を刺激しているからです。
- 人は自分の価値・立ち位置・正しさを、他人と比べることで確認しようとするという心理。
- 自分より「うまくいっていそうな人」と比べる心理。
- 「何か大事なことを見逃しているかもしれない」という不安。
でも、「いやいや違いますよ。私はただ“情報”を得るために見ているだけなんです」という人もいるかもしれませんね。確かに、SNSは色々な意味で情報の宝庫ですから。真偽や質はともかくとして。
ただ、それすらもSNSの戦略というか心理に踊らされています。SNSは「情報」ではなく欲望を刺激する装置でもあるから。「足りていないわけじゃないのに、足りない気がする」状態なのであれば、もうSNS依存に陥りかけています。
Instagramをやめたこと
私は約2年前、Instagramを辞めました。実は意図せずだったんですよね。ある時、ログアウトをしてみたんです。理由は忘れたんですけど。そして、ログインをしようと思ったら出来ない・・・。IDもメールアドレスも、パスワードもいろいろと複雑にしてしまったんですよね。すべての情報がわからなくなり、「もういっか」と開き直ってInstagramから離れたわけです。だから、今も私のアカウント自体はあると思うのですが、何も操作できません・・・。
そんなわけで、強制的にInstagramを見なくなったわけですが、最高なんです。他者の目とか、トレンドとか、ブランドものとか、そういうのがどうでも良くなったんです。オシャレは好きです。けれども、何かを常に買い足してぐるぐる回していく、みたいな思考回路ではなくなりました。「足るを知る」そして「もっと賢く生きよう」と思わされました。反応ばかりする人生ではなくね。
「誰かの生活を見ることが、こんなにも消耗するなんて」
私たちは、主体的に生きていますか?誰かの「コンテンツ」「展示物」を軸として生きているなら残念なことです。これが、SNSに感じていた、言いようのない気持ち悪さ。人間が「鑑賞物」になることへの本能的な拒否感ですね。フェイクなんですよ、すべて。
みんな加工。加工していない写真であっても、その情報は加工。例えば、カフェで撮った写真一枚だってそう(よくあるでしょ?)。誰かに見せたいという魂胆が込められていますから。それって、本音ではなく「演出」でしょう? そんなまやかしのキラキラ、それを見て一体どうなるっていうんですか? それを投稿して、一体何になるっていうんですか?
過剰なんですよ、承認欲求も人生の商品化も。品性がないんですよ。見られる前提の人生、そこに豊かな幸せってあるのでしょうか? 私にはそれがとてつもない気持ち悪さと、圧倒的な悲しみを感じます。ましてや、それがキラキラしていればいるほどに虚構の光そのものだなと。
SNSをやめて起きた変化(リアル体験)
①消費が減った
ダントツで、お金の問題ですね。私はInstagramに燃えていた頃、出先でカフェを選ぶならば「インスタ映え」するところを狙っていました。あれ、もう死語なのかしら。何を食べたいかよりも、見た目重視でした。たいして稼いでもないのに、見栄ばかりを気にしているも同然でした。
それと、ファッション代。特にバッグやジュエリーです。今までは、買ったものを掲載していました。わざわざ包装と一緒にいろいろな角度から綺麗に撮ったりして、「買っちゃった❤️」みたいに投稿していました。だから何だって言うのでしょう。記録という名目とは言いつつ、人に見せたいだけなんですよね。本当に満足しているなら、写真載せなくても良くない?何かにつけて、消費したものを掲載していました。ゆえに、ネタとしてお金は頻度高く使っていました。
②思考が戻ってきた
人の人生ばかりを見ていると、頭がボーッとしてくるんです。なんなら、心にモヤもかかる感じ。クリアな心ではないのです。キラキラしている人を画面上で見ると「むむっ、このカフェはどこだろう」「この人のバッグ、私も欲しい」といった欲望が常に湧き上がってくるのです。
ちなみに、Instagramのリールだけではなく、YouTube動画もたくさん見すぎて、情報を過剰に摂取していました。そのわりに身にならず。テレビ垂れ流しと同じ現象かもしれません。ともかく、自分がじっくり考えるということがなくなっていました。だから浅いし、情報弱者になる。それに気づいたのも、いろいろ失敗をしてからです。思考がいかに奪われていたことか。
③自分の人生が動いてきた
SNSは本当の世界ではありません。友達はできるかもしれないし、お金も稼げるかもしれません。けれど、すべて反応から生まれた薄っぺらいものなので、霧のように消えていくと思っています。とはいえ、私はそこまでやってきていないので、経験的には語れませんが。でも、一つはっきり言えることがあります。それは、SNSは本当の人生ではないということ。テレビと同じです。エンターテイメント。
私の人生はエンタメではありません。私にはやるべきことがあるし、正しく命を使い、自分という個性を全うしたいのです。そう思った時、SNSは私には不要でした。発信の一つにはなるかもしれませんが、けれどなくてもいいのです。あってもなくてもいい、そういうレベル。だって、SNSは私の人生ではないし、なんなら私の人生を投影させるにはあまりにもエンターテイメント過ぎるからです。そういう軽さの一部にはなりたくはありません。多くの人に見てもらう必要などもないからです。私は私だから。
でも、退屈じゃん〜とか思うかい?
暇さえあればスマホを触ると、ゲームやらSNSやら、何かの通知チェックとかをするでしょう。こういうのはすべて刺激です。これらの刺激がなくなると、人生は退屈になると思っている人もいるかもしれません。しかし、そんなわけないんですよね。私はスマホのない時代も生きてきました。本を読んだり、何か手を使ってつくったり。またはジムに行って体を動かしたり。音楽を聴いてウォーキングをしたり。掃除をしたり。ノートを書いたり。・・・スマホがなくてもやることはいっぱいあるし、もっともっと能動的なんですよね。鑑賞で終わらないから。
人生は自分から動かないと!
見ているだけで人生は変わらないです。動かないと。SNSはエネルギーを吸い取られやすい仕組みだと思っています。投稿する人も、閲覧する人も、どちらも。人生動かないから。エンターテイメントってそういうものでしょう。それでも楽しいならば、それもまた人生かもしれませんが。
でも、人生ってもっと広いと思うのです。自分から文字通りに動いていくことで、出来ることはいくらでも出てくるし、見える景色も変わります。素晴らしい出会い、温かみを知ったり。それこそ、歩いていて小さな蟻が動いているのを見ただけで私は幸せを感じたりします。景色が変わってきます。
SNSといった狭い枠組みの中で生きるのは、あまりにも勿体無いです。世界は広いし、自分の心はもっと広いのだから。
私たちには、もっとやるべきことがある
私のSNS断ちはたまたまでしたが(冒頭参照)、もし、執着していたらSNSにまた戻っていたと思います。それこそ、これまでお金と労力をかけてきた投稿を見れば、手放すのは辛いと思うのも人情として理解できるかと思います。しかし、私はもっと広くて深淵なるものを知ったので、SNSには興味がなくなりました。聖書との出会いでした。自分は何のために生まれてきたのかを知った時、SNSに時間を割いている自分が心底嫌になりました。くだらないなと。
また、この世は嘘だらけだと心底思わされたからです。仕事上、広告やプロモーションに携わってきました。キラキラの舞台裏を知っています。キラキラしている人は、キラキラしていませんでした。何もかも、非常に巧みでした。私たちが渇望する理由づくりと刺激を、舞台裏ではとんでもない勢いで生産しています。頭のいい人たちが昼夜、真剣に設定しています。
それらにも疲れてきました。SNSは、いわば喜劇です。人生なんて、とんでもない!エンターテイメント。現代の高度な技術と心理をつかったエンターテイメントです。こんなこと、学校では習わないので知らなくて当然です。そういう世界が本当にあるのです。
そんな世界は知らなくてもいい。ただ一ついえるのは、SNSから降りて、もっと自分の人生を、目の前のことを真剣に見て生きていこうってこと。それだけです。
この世は舞台、人はみな役者
ウィリアム・シェイクスピア『お気に召すまま』


