行動が伴わない信仰は無意味です。心の中で「神様は、主イエス様です」と思っていても、行動が伴っていなければ意味がないも同然です。このお方を信じているのに、それでもスピリチュアル系に足を突っ込んだままの私の過去をお話します。
スピリチュアルに浸っていた過去
私はかつて、スピリチュアル系の企業でプロモーターとして働いていました。詳しくは別記事に書いていますが、小学生の頃から30歳まで、占いやスピリチュアル系の自己啓発に深く浸かってきたのもあり、不思議で神秘的で、精神的なことが大好きでした。その一環で、神社にも興味があったわけです。聖書を読み始めて、3ヶ月とかのまだ初期段階の頃のお話です。
イエス様を信じながら神社で祈祷を受けた

結論から言うと、私は主イエス様を信じていながら、軽い気持ちで神社に行き、祈祷を受けてしまいました。当時の仕事は「某著名人との神社ツアー」というものでした。霊的な能力のあるリーダーを中心に、約10人ほどおで神社で祈祷を受けたり、チャネリングをしたり、現地のおいしい食事を楽しむ日帰りのミニ旅行でした。
旅行と聞くと楽しそうですが、同時に私は若干の葛藤を感じていました。ですが、イエス様を信じたばかりの私は「これは仕事だから」と心の中で言い訳をし、仕事として参加をしました。結果として偶像礼拝と変わらない行為をしてしまったのです。何せ、神社に行き、頭を垂れて祈祷を受けてしまったのですから。
本当は断るべきだった
まず言うと、本来ならば何があってもこの仕事は断るべきでした。祈祷を受ける中で、私は強い後悔を感じていました。同行していた社員の方が「クリスチャンでしょ?祈祷は受けなくてもいいよ」と声をかけてくれたにもかかわらず、私は「せっかくだから受ける」と答えてしまったのです。大人になってから祈祷を受けた経験がほとんどなく、「一回5000円の祈祷が経費で受けられるなら体験してみたい」と思ってしまいました。あまりにも軽率でした。
祈祷を受けている中、私の内に何かが入り込んでくる感覚がありました。身体が重くなり、何よりも直感的に「これは良くない」と感じました。目には見えないものの、霊的に変な違和感があったのです。聖書を読んでいる私としては、「あ、もしかして悪魔かもしれない」と思ったわけです。事実、そうだったのでしょう。この瞬間、神様の加護が消え、一気に無防備になってしまった自分を感じて喪失感すらありました。
その後、人生は苦しみに傾いた
気のせいかもしれませんが、その後の私の人生は苦しみに満ちていきました。困難がありました。とはいえ、バプテスマも受けるわけですが。何が起きたのか、具体的な出来事の詳細は思い出せませんが、振り返れば明らかに人生の波乱期でした。口ではイエス様を信じていると言いながら、行動では「せっかくだから神社で祈祷を受けよう」とケチな根性を出してしまう。その程度の理解しか、神様への愛はなかったのです。結果として、私は神社を礼拝したも同然、悪魔を受け入れてしまったというわけです。それでクリスチャンとは、笑わせます。そんな過去が私にもあったのです。
「何を祀っているか」は本質ではない
ここで一つ、重要なことがあります。神社は何を祀っているのか——気になるポイントですよね。主イエス様を唯一の神様だとわかっている方には、もうあえて説明する必要はありません。そうではなく、「神社って結局何なの?」こういった疑問が少しでも湧き上がった方へ知っていただきたいことがあります。まず結論からいうと、神様ではありません。神社に神様はいません。神社は神聖な場所でもありません。すべて、幻想です。人間が勝手につくって信仰している、虚しく偽物な神を崇拝しているおかしな場所にすぎません。
たとえそこに“何か”がいたとしても、あるいは何もいなかったとしても、それ自体は本質ではないのです。問題の本質は、神様以外のものを崇拝していることそのものにあります。それを、偶像礼拝といいます。
神様は唯一であり、人の造ったものに宿られない
聖書的に見るならば、神様は唯一の存在です。そして、人が造ったものの中に宿るお方ではありません。神様は、天におられる方です。あの大空の上に、宇宙の上におられる、この世界すべてを造られた創造主——主イエス様です。この事実は、聖書でしか深い意味では理解できません。私が今この記事であれこれ言ったところで、あまりピンとこない方もいると思うからです。人間の言葉ではなく、神様の御言葉で知っていただきたいです。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。 わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、 全地にあがめられる」。
旧約聖書 詩篇 46:10
だからこそ「ズレ」が起きる
スピリチュアルの世界では、「エネルギー」「宇宙」「見えない存在」など、さまざまな概念が語られます。それらは、一見すると神様に近いもののようでいて、本質的には異なります。それに気づかないうちに、神様ではないものに意識を向け、依存し、拝む。それこそが、聖書的に見れば“ズレ”であり、結果として悪魔崇拝に繋がっていくのです。そう、悪魔を拝んでいることになるのです。神様ではない霊的な何かは、悪魔です。神様は複数いません。唯一です。そして、自然や天使、死者も神にはなり得ません。それらも含め、神様が造られました。神になり得ません。
子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。
新約聖書 ヨハネの第一の手紙 5:21
信仰よりも好奇心を優先していた過去
先ほどのお話は今から約3年前の出来事でした。今の私からすると「ありえない」としか言いようがありません。しかし当時は、自分の信仰よりも好奇心や仕事を優先していました。神様のこと、信仰のこと、自分の生き方について深い理解がなく、非常にブレブレだった頃の私です。
これまで15年以上、ずっとスピリチュアルな世界に浸ってきた私としては、神様はイエス様であり、創造主であることを知りませんでした。そして、自分がこれまで大切にしてきた神社や何か霊的な存在など、すべてが嘘で、悪魔だったということ聖書を通して知った時は混乱していました。頭だけでは完全な意味で受け入れていなかったのかもしれません。神様も悪魔も、私にとっては好奇心でしかなかったのでした(過去)。
世の友となってはいけない
私から伝えたいことは一つです。世の友となってはいけません。世の友とは、世俗に馴染みすぎて神様から離れるということです。この世は悪魔の支配にあります。しかし、それすらも神様の大枠の中です。それでも、選択は個人です。神様を選ぶのか、悪魔を受け入れるのか、その自由意志を神様は強制されません。私たち一人ひとりに委ねられているのです。
バプテスマはゴールではなくスタート
私はあの神社ツアーから半年とたたず、バプテスマを受けました。しかし、受けたらそれで終わりではありません。むしろ、私の体感ではここからが始まりだと真に理解しています。この時から今日まで、2年半が経ちましたが、バプテスマ後からが真の人生だとすら感じました。世界が変わりました。
悪魔からの誘惑や敵意が増え(悪魔だとはわかりませんが、試されることが起きた)、信仰が揺さぶられる場面が何度も訪れました。あの神社ツアーみたいな、信仰を揺るがすものが幾度となく。まるで神様から引き離そうとする力が働いているかのように感じることもあります。このような試練を幾度もなく受け、ボロボロになりながら戦ってきました。今もその途中です。それでも、神様の手を離さないように、しっかりと立ち続けなければなりません。
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
新約聖書 エペソ人への手紙 6:10-12




