33歳の今、ふと思う。この先、私はどう生きていくんだろう。20代の頃よりも社会を知り、生き方を考えさせられ、少し虚しくもなり、悩み、それでも今を生きねばならない。死にたいとは言わないけれど、生きるのも少々疲れ、ぼんやりしている今の心を綴りたいと思います。ぼやきですね。
一人で生き抜いてきた私

これまでの10年、東京で一人暮らしをしてきました。振り返ると、総じて大変でした。今も大変なんですけどね。でも、それ以上に慣れたので問題は特になし。ただ、疲れました。一人は楽ですし、なんだかんだで充実している時もありました。けれども、33歳の今になって、一人はしんどいかもしれないと思うようになってきました。
この世界は、私にとって一人で生きるには少し重たいのです。骨が折れる、という言葉がしっくりきます。そして、虚しいのです。一人で自由気ままに生きたって、一人ですから・・・ってね。
恋愛も結婚も、正直どうでもよかった過去
ここまでの人生、心の底から結婚願望があったわけではありません。むしろ、生きることに精一杯でした。だから、恋愛らしい恋愛も、中学生や高校生の頃の「安全な恋」しかないのです。大人になってからは、そんな余裕もありませんでした。社内で少しだけ、あとマッチングアプリで会ってみたりもしたけれど、条件ばかりを考えてしまい、楽しくなかったです。恋愛が面倒になりました。
けれど、30歳でクリスチャンになってから、すべてが変わった気がします。意識が変わりました。だからこそ、一人で生きるのはつまらないなと思ったわけです。この先、どう生きるのか考え方が変わりました。価値観が変わりました。「本当の意味で、大切な人がほしい」やっと、私は大人の心を持てた気がするのです。20代は子供であり、生きるのに精一杯でした。
私が求めているのは「愛」だった
そこで主なる神は人を深く眠らせ、眠った時に、そのあばら骨の一つを取って、その所を肉でふさがれた。 主なる神は人から取ったあばら骨でひとりの女を造り、人のところへ連れてこられた。
旧約聖書 創世記 2:21-22
神様は、男と女を造られました。人間を二種類の人に造ったのです。意味があるから、そうしました。私は女であり、男ではありません。今まで知らなかったのですが、女性一人で生きていくには虚しいと感じました、心の底から。なんというか、片割れのまま強く生きていけるほど強くはないなと。
いや、むしろ男だとか女だとかではなく、人間は弱いのです。本当に弱く、一人でも大丈夫な人はいないと思います。それを堂々と言える人は、それはすごい経験をしてきた人であり、ある意味では特別にすら思います。私はそうではありません。今も弱っています。一人で生きるには、この世はあまりにも難解なのです。
そもそも、40歳まで生きていけるのか、不安になるくらいに。だから、一緒に生きていける人がほしい。
支え合える人がほしい。そう思いました。これは依存的な気持ちなのだろうか、それとも、ただ人間として自然な願いなのだろうか・・・夜中に一人考えていました。
愛は、お金では買えない
少し個人的なお話をさせていただきます。生きるとは、愛とは、を考えさせられたきっかけでもあります。つい先日、母が離婚しました。60代前半です。ちなみに、2回目の離婚。もう驚きでした。突然、事後報告として告げられました。
その決断をした背景には、どうやら祖母の莫大な遺産があるから、母としては我慢せずとも一人で生きていけると思ったかららしいですが。もちろん、お金が云々の前に、共に生きるパートナーとのことで何かあっただと思いますが。とはいえ、結果として「一人で生きられる状況」が、縁を切る選択を後押ししたようにも見えました。
そのとき、私は強く思いました。人との縁、特に愛ある縁は、簡単に手放してはいけないと。母が決めた離婚という選択、私はすごくモヤモヤしたのです。お金では、絶対に買い戻せないものがあります。愛です。人との関係です。離婚は、相応の理由がない限りするべきではありません。母はクリスチャンでもなければ聖書も知りません。私がとやかく言う話ではありませんでした。ただただ、この件は反面教師でした。
もし神様が、憐れみをもって私に愛する人を与えてくださったなら、私はそれを何よりも大切にしたいです。お金は万能ではありません。愛こそすべて。愛は、信仰と希望と同列にあるものだから。
それでも私は、まだ何も得ていない
ここまで言っておいてなんですが、私はまだ、深い愛を得たことがありません。それはきっと、結婚でしか味わえないものでしょう。羨ましいです。だからこそ、求めているのかもしれません。だからこそ、理想を見ているのかもしれません。
私は今、ようやく気づいたのです。愛を育みたいと思っている自分に。それがない今の自分に。だから不安で不安なのです。
この世に何かを残したいわけじゃない
私は正直、この世に何かを残したいとは思っていません。興味もないです。ですので、自分の事業だとかに強いこだわりや熱量を持っていないのです。ちなみに20代は、その思いが強かったです。成功欲みたいな。けれども、今の私はそれが私の本当に重要視しているものではないと理解しました。
まぁでも、もしこの世に残すとするなら、それは「家族」だと思います。結婚もしていない私が言うのも変ですが、子どもでしょうか。血のつながり、継承。これを愛と簡単に言っていいのかわかりませんが、そういうものです。しかし、それすらも神様の御心によるものであり、与えられるもの。起きるかどうかは、私が決めることではありません。ただただ、重要なものだとわかります。
孤独だから求める「愛」
クリスチャンになった私としては、この人生で一番大事なものに出会いました。主イエス様を知ることです。けれど、その「知る」は生涯をかけてなのだと感じています。そこには「愛」もあります。孤独を感じる今、だからこそ愛を求めるのだろうなと感じます。すると、どうでしょう。すべてが万事となると約束してくださった神様の御言葉は真実であり、人生は虚しいと呼ぶにはあまりにも美しすぎます。綺麗事かもしれませんが、それは少し違って、綺麗な事です。ちょっと意味不明な文章になってしまいましたね。。
神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
新約聖書 ローマ人への手紙 8:28
私はこの先、どう生きるか
結局のところ、答えはシンプルです。私は、愛・信仰・希望を、この人生で積んでいきたい。それだけです。何かを残すためではない、評価されるためでもない。ただ、愛を育みたい。 愛を知りたい。 愛を楽しみたい。もしかするとこれは、これまで得られなかったものへの渇望なのかもしれません。それでもいいのです。私の人生はきっと、これからだから。終わりではないから。
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
旧約聖書 エレミヤ書 29:11
30代からの生き方は、「愛を選ぶこと」
33歳。遅いのか、早いのかはわかりません。けれども、ひとつだけ確かなことがあります。私はこれから、愛を選んで生きていきたいと。一人で孤独に耐える人生ではなく、誰かと分かち合う人生を。そして、継続していきたいなと。もし神様がその機会を与えてくださるなら、私はそれを全力で受け取り、大切にしたいです。本当に、本当に。
天が下のすべての事には季節があり、 すべてのわざには時がある。
旧約聖書 伝道の書 3:1
最後に
人と繋がる喜びがほしいです。この願いは、弱さからくるものではありません。今ならはっきりとわかります。すべての私のこの経験と、神様の御言葉を味わった今、本当に大切な愛を求めるこの気持ちは尊いのです。欲求とかの話では浅いと思っています。神様からの恵みであり、与えられたらそれはもう感謝。それが、私にとっての「30代から先の生き方」であり求めでもあります。
・・・あれっ、なんか書いているうちに、40歳まで生き残れるだろうかみたいな不安は不思議と消えていきました。
わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、 白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。 わたしは造ったゆえ、必ず負い、 持ち運び、かつ救う。
旧約聖書 イザヤ書 46:4
人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。 主がこれを負わせられるとき、 ひとりすわって黙しているがよい。
旧約聖書 哀歌 3:27-28



